【腐】不覚
眠りが浅いのはいつもの事だが、今日は特に眠れた気がしなかった。
高い天井、青白い壁、広すぎる部屋。見飽きたその光景は日常となんら変わりなく、だが覚醒しきっていない脳は日常へ戻る事を拒絶しているかのようだった。まだ、眠っていたい。
まどろむ思考で、臨也は眠りにつくまでの事を思い返した。ほんの数時間前の事であるのに、記憶にもやがかかっているような錯覚を覚えた。はっきり思い出せない。手探りでたぐり寄せた記憶の糸は、どこに繋がっているのかも曖昧だった。
ひとりではなかったような気がする。
気を失うようにして眠りについたあの時、側には確かにひとのぬくもりがあった。否、それはぬくもり等という生易しい存在ではなくて、凶暴な熱と言った方が正しい。そこに優しさや慈しみは一切存在せず、ただ、生々しい痕跡だけが随所に残されていた。
広いダブルベッドは自由に寝返りを打っても大丈夫な筈なのに、臨也はベッドの隅で眠っていた。不自然に偏ったシーツの皺が物語るのは、数刻前までベッドを共にしたはずの存在。
帰ったのだろうか。まだ、夜も明けきっていないというのに。
時間の経過とともに記憶のもやは薄れていき、次第にはっきりと思い出された記憶は、臨也にとってあまり従順に受け入れられるものではなかった。
「……なんだ、起きてたのか」
すぐ側に人の気配がする。身体を動かすのは怠かったので、声のした方へ視線だけを投げた。
「あ……」
「臨也?」
何か返さないと。そう考えれば考えるほど、この状況で何と言葉を発したらいいかわからなくなっていく。喉の奥まで出かかった言葉は、かろうじて飲み込む事に成功した。
一瞬でも、帰ってなかった事に安堵したなど、目の前の男に伝えられる程この関係は甘いものではないのだから。
「シズちゃん……その、か、帰らないの?」
結果、口をついて出たのは、思考とは真逆の言葉だった。自分でも、なぜこんなにしどろもどろなのかがわからない。
不意に傷つけたくなるのは大事なものである事が多いが、少なくとも臨也にとって、静雄は大事でもなんでもない存在のはずだった。それなのに。
「あのな、言ってる事めちゃくちゃだぞ? 手前が帰んなってごねるから、残ってやってんのに」
「俺、そんな事言った?」
「覚えてねえのかよ。……ったく」
記憶にない。いつ、そんな本音が漏れてしまったのだろうか。かといって、事の顛末を聞くのは余計に恥ずかしい思いをしそうなので止めておいた。
ベッドの縁に腰掛けた男はただ静かにこちらを見ている。かち合う視線。先に逸らしたのは臨也の方だった。
臨也は記憶の糸を手繰り寄せていた。昨夜、彼はこんな目で自分を見ていなかった。もっと、強烈に熱を孕んだ目だった。静雄が持て余した熱は、全て余す所なく自分へと向けられていて、それが不覚にも酷く心地良かったのだ。
もっと欲しいと思った。嫌い合っている筈なのに、大事な何かでもなんでもない筈なのに。優しさも慈しみも存在しないし、何かを産み出すこともない。それでも、認めたくはないけれど、静雄の熱は自分を満たしてくれる。一度覚えた欲求はそう簡単に抑えることなどできなくて、熱に浮かされた思考で臨也は何度も何度も求めたのだ。
どうかしている。求めた自分もだが、応えた静雄も静雄だ。
「あーあーあー、思い出したよ、うん」
「……寝惚けてんのか。一発殴るぞ」
「朝から暴力? 別にいいけど、誰の所為で俺が動けないと思ってんの?」
「ああそうだったな、だけどそれは自己責任って言うんじゃねえのか? ノミ蟲さんよぉ」
「う……そう、だけど、シズちゃんだって嫌がらなかったじゃない」
一度言葉を交わすと、それは否応なく諍いじみた応酬へと変わってしまう。昨夜の余韻に浸りたいわけでもなかったが、こんな形で現実に戻りたいわけでもなかった。
まだ、寝惚けているのかもしれない。記憶の糸を辿った先は当初の予想通り、臨也にとって受け入れがたい事実が残されていた。だがそれ以上に、事実とともに存在する剥き出しの感情は、もっと受け入れる事ができなかった。
こんな捻れきった関係など、今に始まった事でもないのに。
臨也は、ベッドの縁に腰掛けたままの静雄の手をぐいっと引っ張った。広いダブルベッドは成人男性二人分の体重も易々と受け止める。臨也に覆い被さるような体勢となった男は、ほんの少し困惑の表情を浮かべていた
「ちょっ……」
「ね、どうせ始発まではいるんでしょ?」
剥き出しとなった衝動は、もう抑えられそうにもなかった。昨夜の事を思い出して疼くなど、本当に、どうかしている。
「帰んないんだったらさ、もっかいしようよ?」
「あ?」
「……何度も言わせないでよ。時間あるんだからしようっつってんの」
「無茶言うなって。動けねえんだろ」
「何、心配してくれんの? 動けない事に変わりないんだから、やっても一緒だって」
「誘い方ってモンがあんだろ……」
半ば呆れるような言葉を口にしつつも、静雄も一応その気になったらしい。噛み付くようなキスを落とされた。
不覚にも、気持ち良いと思ってしまった。