無題
「フィーア……」
血で真っ赤に染まったフィーアの冷たい手を握り締めながら、王はただ呆然と座り込んでいた。副官や兵たちが促してもフィーアの亡骸を放そうとせず、目に涙を湛えたまま唇を噛み締めるその姿は、見る者の胸に鋭い痛みをもたらした。
「許さない…、許さない絶対にっ!! 狼め…っ!」
ぼろりと大粒の涙が零れ落ちた瞬間、王の瞳に憎しみの炎が広がったのを、ニーアは敏感に感じ取っていた。王の絶望と憎悪に染まった表情に、そっと眉を寄せる。
(…俺も、こんな風に周りの人を不安にさせるような目をしてるのか)
まるで5年前の自分を見ているようだと苦く思う。いや、5年経った今も憎しみに囚われたまま変わっていないのだから、未だに暗く淀んだ目をしているのだろう。
大切なものを奪われた怒りと喪失感は、手に取るようによく分かる。そして、憎しみに駆られたまま復讐に身を投じることの危険性も身にしみていた。
けれど、自分に王を止める資格などないのだと、ニーアは拳を強く握り締めた。王と同じ目をしている人間が「復讐なんてやめろ」などと言ったところで説得力のかけらもないということを、ニーア自身充分に理解しているからだ。
(だったら…)
フィーアを殺したあの大きな狼はマモノだった。それならば、マモノへの憎しみに囚われたままの俺にこそふさわしい獲物だ。
放っておけばたったひとりであの狼に向かって行きそうな王を守るためにも、アレを切り刻むのは俺の役目。それは誰にも譲る気はない。
そう暗く微笑んだニーアを、白の書たちがそっと見守っていた。