一夜限りの休戦協定
「まぁ、あれだ。仏教で言う、花祭りのようなものだな」
教祖の生誕を信者が祝う。ただ、それだけのことだ。
自分の真向かいで、そんなことを鬼で外道な上官が言う。
耶蘇の教祖はもとより、神も仏も欠片だって信じていないような類の人間の癖に、一体何を言い出すのかと黙って聞いていれば、これだ。
伊達英明は思いながら、身の回りの私物を纏めて鞄につめている。
冷え込みの厳しくなった十二月。世間は師走にはいり、どことなくせわしない気配を醸しだしていた。
ハワイでジャマイカンに撃たれた傷も癒え、海兵隊病院から追い出されようとしている伊達を身許引き受けという形で迎えに来たのは、鬼怒田だった。まだ、息をする度に鈍痛が胸腔を走るが、日常生活を送るには別段の支障はなくなった。あとは再度の訓練を受け、感覚を取り戻すことが最優先となる。そのため、彼にはそんな行事などには関心がなかった。しかし、鬼怒田がそれを言い出すということは、何かあるのかもしれない。
伊達は口を開いた。
「その行事がなんだというんです。連隊総出で何かやるんですか?」
有事下とはいえ、特段これといった動きのない日々だ。
この型破りな男が指揮する第三連隊ならば、演習の合間に暇を持て余して、何かやらかそうとしても不思議ではない。そうなると、恐らくいの一番に矛先が向いて巻き込まれるのは、松田が大隊長を勤める第一大隊だろう。
こんな男が上官であるおかげで苦労しているのは、自分だけではないらしい。
あまり慰めにもならないが、伊達はそんなこと思った。
だが、彼の予想に反して、
「いや。何もやらん。ただ、そんな日は恒例として交戦中の国同士が一時休戦となるという話があってな」
鬼怒田は否定し、両切り煙草を吹かしながら、話を続ける。
いくらこの病室の主であった怪我人の自分が退院するとはいえ、さすがにここで煙草を吸うのはいかがなものであろうか。
内心、呆れながらも、伊達は別のことを口にする。
「それは耶蘇を信仰する国の間での話でしょう? ならば、仏を信じる国では花祭りに休戦ですか」
それはそれで滑稽なことだ。
「そこかしこに神も仏もいる日本と、どこにも神のいないアメリカとでは、そんなことは夢物語だと思いますが」
「確かに唯物主義の連中には関係ないな」
鬼怒田は紫煙を吐き出した。そして、
「もしも、一日……いや、一晩だけの休戦が決定されたらどうする」
聞かずとも知れたことを男は言いだす。
「決まっています」
伊達の双眸が窓から差し込んだ夕陽を受けてきらめく。
田宮を探し出して、とっ捕まえ、胸倉を掴んで。小一時間如きでは足りない。納得のいくまで問い詰める。
何故、自分を裏切ったのか。
一体、いつから。
何故……どうして。
訊きたいことは山ほどある。だが、今は問いだけが虚しく谺し、それに対しての答は未だ示されない。
「問い詰めたとして、貴様の納得のゆく答をもらえなかったらどうするつもりだ」
鬼怒田の問いに伊達は一瞬、息を呑み、唇を噛み締めた。
「それでも、それが田宮の真実ならば仕方がない」
そう。仕方がない。恐らく納得はできないだろう。しかし、それが彼の真実だとしたら、自分は納得するほかに道はない。
「俺はあいつの口からあいつの真実を聞きたい」
誰かから伝え聞いたというような不確実なものではなく、己のこの耳で直に聞きたいのだ。
鬼怒田に答えるうち、ふと、疑問が浮かび、伊達は顔を上げた。乾いた喉から無理矢理に言葉を絞り出す。それは自分でも滑稽だと思えるほどに震えた声だった。
「……まさか、そういう休戦日を設定したとかいうオチじゃないでしょうね?」
「馬鹿者め。そんなことがあるわけなかろう」
言下に否定されたことに何故か安堵する。
「貴様は連合空軍に移籍だ。年明けには正式に辞令がくる」
おめでとう、伊達中尉。また戦闘機に乗れるぞ。
言いながら、外道な上官は一つの表情を形作る。
その表情を見つめつつ、伊達は確信する。
己の前に神がいなかったとしても、悪魔は確実にいると。
(2003.12.6.)