誰があんな奴のこと
そんなことを言う鬼怒田によって、炎天下の中、伊達は島津重工航空部八王子工場へと連れてゆかれた。
鬼怒田が『我が生涯の友』だなどと口にする相手ならば、この男と同類項……即ち、彼と同等若しくはそれ以上の悪魔か、外道の所業すらも赦せてしまえる菩薩のように温厚な人物のどちらかだろう。はっきり言ってしまうと、後者だというのは全く期待していなかったし、実際に会ってみればみたで、そんな優男ではなかった。
期待していなくて正解だったな。
伊達は胸のうちで呟く。
結局、引き合わされたのは、「紙一重の戦争狂」との異名をいただく男。今回のハワイ戦だけではなく、恐らく今後も続くであろう戦争を内地で統括する宗方怜士大佐。つまりは、鬼怒田に輪をかけて、外道な男だったわけだ。
そして、悪魔は悪魔に相応しい台詞を口にした。
『彼らを土に返す』と。
唯物主義の連中を煉獄へと突き落とし、広大な大地を焦土に帰する。
そう言って、宗方は富嶽を前に笑みを浮かべた。それは見る者を凍らせる、静かな狂気すら孕んだ笑み。
伊達は彼と背後の重量級爆撃機に威圧され、ただ、戦慄を覚えるだけだった。
重苦しい雰囲気の中、伊達と鬼怒田は工場を後にする。
「さて、これからどうする伊達中尉」
鬼怒田が煙草を銜えて、火をつけた。
出兵前に与えられた休息ではあるが、何もすることがない。かといって、宿舎で寝るのも憚られる。
伊達は戻って、限られた時間の中で懸命に物資の積み込み作業を続けているだろう松田大隊を手伝うべきかと、頭を悩ませていたところ、
「行くあてもないなら、浦安にでも行って戦車でも見てこい」
又しても鬼怒田によって、今度は浦安へと追いやられることになってしまった。
それにしても、ついこの瞬間も苦労している松田大隊の所属する第三連隊を統括する連隊長が、こうもあちらこちらをふらふらとしていてよいものか?
だが、鬼怒田は伊達の懸念を鼻で笑い飛ばし、こともあろうに浦安行きの前に喫茶店への寄り道を指示したのだった。
「地獄巡りの前の束の間の安息というやつだ」
彼は嘯く。伊達にはただ彼について行くしかない。
そして、二人は鬼怒田が贔屓にしている喫茶店へと立ち寄った。
芳しい珈琲の香が立ちのぼる。
ラドリオのようにウィンナーコーヒーがないことが残念だが、この喫茶店もなかなかのものだ。
しかし、伊達は先ほど見せつけられた爆撃機の衝撃から立ち直りきっていない。あれがアメリカの空を飛ぶ姿を想像しようにも、現実感が乏しい。あの広大な土地を焼け野原にしようなど……彼は本当にやるつもりなのだろうか。
彼は珈琲に一口だけ口をつけると、溜め息をつく。
「溜め息をついている暇はない。これから忙しくなるぞ」
鬼怒田の声に顔を上げ、向かいに座る彼を見つめた。
「売られた喧嘩はきっちり買い取るということですか?」
「買い取るに決まっている。ついでに言うなら、そいつは買戻特約付きの喧嘩売買だ。但し、かなり吹っ掛けた額で連中に買い戻させる」
そのために我々はあの富嶽を作ったのだ。
「それに生き残るためには手段など選んでいられん」
鬼怒田の口調に強い決意が滲む。
確かに彼の言うとおりだろう。
もしかすると、自分のことも選んでいられない手段の一つなのかも知れない。
伊達は思ったが、別のことを口にした。
「しかし、大佐に『我が生涯の友』などと称する人物がいるとは思ってもみませんでした」
言ってしまってから、慌てて口を噤んでも、もう遅い。己の粗忽さを呪いつつ、恐々としながら彼の顔色を伺った。
「……貴様……さりげなく無礼なことを言っているな」
だが、鬼怒田は怒るでもなく、口許に不可解な笑みを浮かべているだけだった。そして、彼は口を開く。
「そういう貴様と田宮もそうだっただろうが」
悪意が多分に含まれた発言だ。
伊達は彼の言葉に眉を寄せた。
「俺と田宮は……そういう間柄ではありません」
毅然と否定するが、声は何故か震えた。
「そうか。『生涯の友』でなければ、なんだ?」
鬼怒田の問いに伊達は考えあぐねる。
生涯の仇敵でもない。そんな言葉では言い表せない。ただ、ひたすら会わなければならない人間。自分の求める真実の欠片を持つ。それが彼だ。
伊達は言葉を探しつつ、珈琲で唇を湿らせる。
そんな彼を眺めつつ、人を食ったような笑みとともに、鬼怒田は言う。
「ならば、『運命の恋人』か?」
この男の口からそんな台詞がでてくるとは思ってもみなかった。思わず珈琲を吹き出しかけ、むせって何度も咳き込んだ。あまりにも咳き込んだため、涙目になってしまった。
「何故、そこまで話が飛躍するんですか……」
誰があんな奴のことなど。
手の甲で目元を拭いつつ、そう吐き捨てるが、言葉に力がないことを自覚する。案の定、それを感じ取ったらしい鬼怒田は、
「そう言うなら、田宮に無関心になってみろ」
愛情の対極に位置するものは、憎悪ではなく無関心だぞ。
そんなことまで言い放ってくれる。
「それは不可能です」
無関心になれるはずもない。もし、そんなことをしてしまったら、恐らく自分はそこで死んでしまう。それだけはわかる。
「ふん……まぁ、かまわんか」
鬼怒田は鼻で笑う。そして、伝票を取って立ち上がった。
「貴様は浦安へ行ってこい。俺は一旦、松田のところに顔を出す」
伊達も慌てて立ち上がった。
「忘れるな。真実を知りたいのならば、どんな手段を使ってでも生き残れ」
彼の言葉が命令なのか、自分への願いなのか……判断のつかないまま、伊達は静かに頷いた。
(2004.1.3)