.……どうかしてる
机の上には書類が散乱している。だが、部屋の主は窓の外を眺めて、煙草をふかしていた。
フレデリック・ライカーは軽く壁をノックするが、田宮は窓の外を見つめたまま、気づかない。
そうこうしている内に、灰皿へと煙草の灰を落とそうとして動かした肘が書類の山にあたり、書類は音をたてて床に落ちる。
ライカーは近づき、散らばった紙を拾い集めて彼に手渡した。
田宮は初めて訪問者に気づいたように顔を上げる。
「なんだ、声をかけてくれればよかったのに」
ノックはしたが、お前が気づかなかった。
そうライカーが言うと、田宮はばつの悪いといった表情を浮かべた。
「何を物思いに沈んでいた。恋煩いか?」
友人、と称しても構わないだろう。今や、特A級監察官となった田宮をライカーは揶揄する。
「どこをどうすれば、そういう解釈になる?」
言って、首を傾げる田宮に対し、ライカーは追い打ちをかける。
症状としては、動悸、息切れ、物思いにふける。情緒不安定。以上が主な諸症状。
ライカーは指折り列挙し、
「外にも症状を挙げてやろうか?」
彼の顔を覗き込んだ。
「……いや、いい」
遠慮するよ。
田宮は片手を振って苦笑する。そして、灰皿に煙草を押しつけた。
元祖国人民英雄である彼は、今でも周囲の注目の的だ。党幹部や軍高官の妻やご婦人方は自分の娘婿にしたい、とか、自分が嫁になりたい、とか思っているらしい。
同志スターリンの覚えがめでたい割りに、人当たりも悪くはなく、出世頭と言っても間違いない。敵は多いが、それ以上に何とかして抱き込みたいと思っている人間も多いはずだ。
「で、相手はどこのご令嬢だ?」
絵に描いたような謹厳実直。自分とは違って、浮いた噂など一つも聞かない。その彼がお悩みとは……これはその行く末をとことんまで見物してやらねば。
ライカーは期待に目を輝かせて、意地の悪い笑みを浮かべた。
観察される側から観察する側に回れるというのは、滅多にない。特にこの男に関しては。
「いや、だから、そういうわけじゃなく……ただ書類を整理していただけだ」
それにしては手が止まっていたと思うが。
思いつつ、机に視線を落とすと、一枚の写真が目に入った。
「そっちの局長からもらったのか?」
田宮は無言のまま頷いた。
ハワイ戦の前に田宮がスィット局長であるハイドリッヒから見せられたものだった。それをそのまま、もらい受けたらしい。
迷彩服姿の男が大型ライフルを手に照れたような笑みを浮かべている。その表情は未だ少々ぎこちないものの、それはまるで、警戒心の塊で今まで毛を逆立てて威嚇していた猫が、漸く人に対して気を赦して甘えることを覚えたような微笑みだった。
ハワイで狙撃手として動いていたことなどを総合すると、瀕死の重傷を負ったとは思えない程の回復ぶりだ。おまけにエトロフでも沼田少佐と戦闘機で渡り合ったと聞く。
「結局、俺は声だけしか聞けなかった……」
田宮が低く呟いた。
先頃のエトロフ戦で、反則技ともいえる救難用周波数を使用した声を聞いたらしい。
「会いたかったのか?」
そういえば、彼はハワイでもそれを期待していたように記憶している。
「万が一に備えることが俺達の仕事だからな」
いつもは平静そのものの彼の口調が、どこかしら苛立ちを含んだように聞こえた。
ライカーは思わず、違和感と懸念に片眉を上げる。
彼の苛立ちの原因をいくつか思い浮かべるが、どれもこれも明確な決定打を欠く。一つだけ思い当たった事柄はあるが、彼は否定した。しかし、しっくり来るものがその外には思いつかない。それでも、どちらかといえば、それは冗談の部類に属する。
彼は肩を竦めて、からかい半分に口を開いた。
「お前、まさか嫉妬してるのか?」
ライカーの指摘に書類を片づける彼の手が止まった。
「……誰が、誰に、なんだって?」
問いを返す穏やかな口調。しかし、その黒い眼差しは昏く冷たい。
さすがのライカーも笑みを凍りつかせる。冗談で言ったつもりなのに、自分の発した台詞は、どうやら彼の地雷を踏んだらしい。
再度、彼に促され、薄氷を踏む思いでライカーは写真を指さしつつ、口を開いた。
「お前が、この写真を撮った人間に対して」
爪先で地面に隠された地雷を探るように言葉を選び、
「嫉妬しているんじゃないのか?」
そう続ける。
この写真を撮ったのが、誰だかは知らないが……恐らく、盗まれたスナイパーライフルの絡みで、こちらから送り込まれていたスパイだろう。しかし、こうも近くから、しかも、表情まではっきりわかるとなると、少なくとも伊達から何らかの信頼を得ている証拠にもなる。おまけにフィリピン戦から彼の辿ったであろう経緯から推測すれば、こんな表情をさせることができる人間は極少数に限られてくる。
彼の言葉に田宮は驚いたように二度三度と瞬く。それは他人に指摘されて初めて気がついたという表情だった。
「あぁ、そうか、そうなのか」
田宮の口許に不可解な笑みが浮かぶ。
「原因はそれか……それならば、確かに恋煩いにも等しいな」
図星だ、ライカー。
あっさりと認め、彼は楽しそうに笑いだした。
「俺はね……あいつが俺以外の人間のことを考える余裕すらなくしてやりたい」
執着の根の深さは、昨日今日のものではない。
そう感じさせるほどに、その口調は昏く、それでいて愛しさをも滲ませている。
「もしかすると、俺はそのためにあいつを裏切って、この国に帰ってきたのかもしれない。いや、『かもしれない』じゃないな」
歌い上げるように彼は言葉を続けた。
「俺は伊達を独占するために、ここにきた」
田宮は断言する。
さすがに最後の台詞はまずかろう。盗聴器が隠されていないとも限らない。だが、彼は、心配ない、というように莞爾と微笑む。
「まったく……どうかしているよ」
ライカーには理解不能もいいところだ。
「俺もそう思う」
田宮はあっさりと認め、苦笑した。
例え自覚があったとしても思うように修正がきかないのは、それもまた恋のなせる技か。他人に言われてどうにかなるのなら、苦労はしない。
恋にしては、かなり歪んでもいるように見受けられるが……いや、それ以前に想う相手は男だ。
彼ならば、女の選り好みなどはしたい放題だというのに、なんで男に走るかね。まぁ……そんなものは人それぞれか。
自分にも他人には知られたくはない指向がある。
ライカーはそれ以上、深く考え追求することを放棄し、危惧したことだけを口にした。
「醜聞にならないように気をつけろよ」
彼の立場となると、噂だけでも命取りとなるだろう。事実であれば、尚更のこと。鬼の首を取ったように騒ぎ立てる輩もいないとは限らない。
「あぁ……そうすることにしよう」
田宮は言った。そして、ライカーの表情に気づいたのか、安心させるように笑みを浮かべた。
「心配するな。伊達が向こうにいる限り、俺はこの国を裏切らない。あいつが会いに来てくれるまで、ここで大人しく待っているさ」
そのためなら、なんだってやれる。
言外に決意が滲む。
「……本当に我ながらどうかしてるな」
フレデリック・ライカーは軽く壁をノックするが、田宮は窓の外を見つめたまま、気づかない。
そうこうしている内に、灰皿へと煙草の灰を落とそうとして動かした肘が書類の山にあたり、書類は音をたてて床に落ちる。
ライカーは近づき、散らばった紙を拾い集めて彼に手渡した。
田宮は初めて訪問者に気づいたように顔を上げる。
「なんだ、声をかけてくれればよかったのに」
ノックはしたが、お前が気づかなかった。
そうライカーが言うと、田宮はばつの悪いといった表情を浮かべた。
「何を物思いに沈んでいた。恋煩いか?」
友人、と称しても構わないだろう。今や、特A級監察官となった田宮をライカーは揶揄する。
「どこをどうすれば、そういう解釈になる?」
言って、首を傾げる田宮に対し、ライカーは追い打ちをかける。
症状としては、動悸、息切れ、物思いにふける。情緒不安定。以上が主な諸症状。
ライカーは指折り列挙し、
「外にも症状を挙げてやろうか?」
彼の顔を覗き込んだ。
「……いや、いい」
遠慮するよ。
田宮は片手を振って苦笑する。そして、灰皿に煙草を押しつけた。
元祖国人民英雄である彼は、今でも周囲の注目の的だ。党幹部や軍高官の妻やご婦人方は自分の娘婿にしたい、とか、自分が嫁になりたい、とか思っているらしい。
同志スターリンの覚えがめでたい割りに、人当たりも悪くはなく、出世頭と言っても間違いない。敵は多いが、それ以上に何とかして抱き込みたいと思っている人間も多いはずだ。
「で、相手はどこのご令嬢だ?」
絵に描いたような謹厳実直。自分とは違って、浮いた噂など一つも聞かない。その彼がお悩みとは……これはその行く末をとことんまで見物してやらねば。
ライカーは期待に目を輝かせて、意地の悪い笑みを浮かべた。
観察される側から観察する側に回れるというのは、滅多にない。特にこの男に関しては。
「いや、だから、そういうわけじゃなく……ただ書類を整理していただけだ」
それにしては手が止まっていたと思うが。
思いつつ、机に視線を落とすと、一枚の写真が目に入った。
「そっちの局長からもらったのか?」
田宮は無言のまま頷いた。
ハワイ戦の前に田宮がスィット局長であるハイドリッヒから見せられたものだった。それをそのまま、もらい受けたらしい。
迷彩服姿の男が大型ライフルを手に照れたような笑みを浮かべている。その表情は未だ少々ぎこちないものの、それはまるで、警戒心の塊で今まで毛を逆立てて威嚇していた猫が、漸く人に対して気を赦して甘えることを覚えたような微笑みだった。
ハワイで狙撃手として動いていたことなどを総合すると、瀕死の重傷を負ったとは思えない程の回復ぶりだ。おまけにエトロフでも沼田少佐と戦闘機で渡り合ったと聞く。
「結局、俺は声だけしか聞けなかった……」
田宮が低く呟いた。
先頃のエトロフ戦で、反則技ともいえる救難用周波数を使用した声を聞いたらしい。
「会いたかったのか?」
そういえば、彼はハワイでもそれを期待していたように記憶している。
「万が一に備えることが俺達の仕事だからな」
いつもは平静そのものの彼の口調が、どこかしら苛立ちを含んだように聞こえた。
ライカーは思わず、違和感と懸念に片眉を上げる。
彼の苛立ちの原因をいくつか思い浮かべるが、どれもこれも明確な決定打を欠く。一つだけ思い当たった事柄はあるが、彼は否定した。しかし、しっくり来るものがその外には思いつかない。それでも、どちらかといえば、それは冗談の部類に属する。
彼は肩を竦めて、からかい半分に口を開いた。
「お前、まさか嫉妬してるのか?」
ライカーの指摘に書類を片づける彼の手が止まった。
「……誰が、誰に、なんだって?」
問いを返す穏やかな口調。しかし、その黒い眼差しは昏く冷たい。
さすがのライカーも笑みを凍りつかせる。冗談で言ったつもりなのに、自分の発した台詞は、どうやら彼の地雷を踏んだらしい。
再度、彼に促され、薄氷を踏む思いでライカーは写真を指さしつつ、口を開いた。
「お前が、この写真を撮った人間に対して」
爪先で地面に隠された地雷を探るように言葉を選び、
「嫉妬しているんじゃないのか?」
そう続ける。
この写真を撮ったのが、誰だかは知らないが……恐らく、盗まれたスナイパーライフルの絡みで、こちらから送り込まれていたスパイだろう。しかし、こうも近くから、しかも、表情まではっきりわかるとなると、少なくとも伊達から何らかの信頼を得ている証拠にもなる。おまけにフィリピン戦から彼の辿ったであろう経緯から推測すれば、こんな表情をさせることができる人間は極少数に限られてくる。
彼の言葉に田宮は驚いたように二度三度と瞬く。それは他人に指摘されて初めて気がついたという表情だった。
「あぁ、そうか、そうなのか」
田宮の口許に不可解な笑みが浮かぶ。
「原因はそれか……それならば、確かに恋煩いにも等しいな」
図星だ、ライカー。
あっさりと認め、彼は楽しそうに笑いだした。
「俺はね……あいつが俺以外の人間のことを考える余裕すらなくしてやりたい」
執着の根の深さは、昨日今日のものではない。
そう感じさせるほどに、その口調は昏く、それでいて愛しさをも滲ませている。
「もしかすると、俺はそのためにあいつを裏切って、この国に帰ってきたのかもしれない。いや、『かもしれない』じゃないな」
歌い上げるように彼は言葉を続けた。
「俺は伊達を独占するために、ここにきた」
田宮は断言する。
さすがに最後の台詞はまずかろう。盗聴器が隠されていないとも限らない。だが、彼は、心配ない、というように莞爾と微笑む。
「まったく……どうかしているよ」
ライカーには理解不能もいいところだ。
「俺もそう思う」
田宮はあっさりと認め、苦笑した。
例え自覚があったとしても思うように修正がきかないのは、それもまた恋のなせる技か。他人に言われてどうにかなるのなら、苦労はしない。
恋にしては、かなり歪んでもいるように見受けられるが……いや、それ以前に想う相手は男だ。
彼ならば、女の選り好みなどはしたい放題だというのに、なんで男に走るかね。まぁ……そんなものは人それぞれか。
自分にも他人には知られたくはない指向がある。
ライカーはそれ以上、深く考え追求することを放棄し、危惧したことだけを口にした。
「醜聞にならないように気をつけろよ」
彼の立場となると、噂だけでも命取りとなるだろう。事実であれば、尚更のこと。鬼の首を取ったように騒ぎ立てる輩もいないとは限らない。
「あぁ……そうすることにしよう」
田宮は言った。そして、ライカーの表情に気づいたのか、安心させるように笑みを浮かべた。
「心配するな。伊達が向こうにいる限り、俺はこの国を裏切らない。あいつが会いに来てくれるまで、ここで大人しく待っているさ」
そのためなら、なんだってやれる。
言外に決意が滲む。
「……本当に我ながらどうかしてるな」