小休止
窓際の席では伊達が疲れ切った表情を浮かべ、気だるそうに紫煙を燻らせていた。
「煙草を吸っているなんて珍しいな」
彼に声をかけると、伊達は初めて田宮の姿に気づいたらしく、彼はゆっくりと視線だけを巡らせた。
あまり積極的には煙草に手を出さない男だ。
それなのに紫煙を吐き出しているということは、余程腹に据えかねる何かがあったのかもしれない。
田宮がそんなことを思っていると、伊達は無言のまま、支給された煙草を箱ごと彼に放り投げた。田宮は飛んできた桜色の小箱を片手で受け止める。
彼はそこから一本抜き取り、箱を机に置くが、
「渡されても、燐寸がないんだが」
言って、指先で転がし、抜き取った煙草を唇に軽く銜える。
机の片隅には喫茶店ラドリオの燐寸箱が転がっているが、彼が自分の煙草に使った燐寸が最後の一本だったらしい。燐寸箱の残骸だけが虚しく机に散っており、灰皿には燃えかすが入っていた。
田宮の台詞に伊達は軽く視線をあげた。そして、暫し、眉を寄せて思案顔になる。
別段、彼に対して何かを期待していたわけではない。
同じく小休止を言い渡された高松でも捕まえ、燐寸かライターでも借り受けようと、田宮が思った刹那。
伊達は机に片手をついて身を乗りだすと、田宮の胸倉を掴んで引き寄せた。唐突のことに彼は一瞬、バランスを崩すが、なんとか踏みとどまる。
伊達は互いが銜えている煙草の先をつきあわせ、焔を移す。軽く伏せられた褐色の睫毛が田宮の視界に入った。彼とは長い付き合いではあるが、改めて気づく。
煙草の先が赤く灯り、田宮はゆっくりと紫煙を肺に深く吸い込んで吐き出す。そして、再び椅子に身を投げだすように座った彼の隣に腰掛けた。
「やっぱり、お前は俺の燐寸だな」
「黙れ、俺の目覚まし時計」
二度はやらん。
即座にきっぱりと断言され、田宮は頬に苦笑を浮かべた。片手に煙草を持ったまま、もう片方の指先を伸ばし、彼の頤を軽く引き上げる。
そして、
案外、睫毛が長い。
と、余計に彼の神経を逆撫でする発言だという自覚はあったが、思わず揶揄を口にしてしまった。
小気味のよい音が室内に響き、手を乱暴に払いのけられる。
「人が気にしていることを言うんじゃない」
やはり、そんな憮然とした答だけが伊達から返ってきた。
時折、練習機の爆音が腹の底へと響いてくる。窓枠が伝わる振動に細かく震えていた。彼の視線はぼんやりと窓の外に向けられたままだ。
ただ煙草を銜えているだけの伊達とは違い、田宮は瞬く間に吸い終えて灰皿に吸殻を放り込んだ。
「かなり鬼怒田教官にしごかれていたな」
遠目にもその光景はよく見えた。
ここでは有名な鬼教官だ。もしかすると、自分の教え子に対して、どんなに最悪の状況になったとしても、死ぬことのないように持てる術をすべて叩き込んでくれているのかもしれない。だが、それは『きつい。ひたすらきつい。死ぬほどきつい』としか表現のしようのないものだった。
彼の台詞に、今まで夢見るように頼り無いものだった伊達の双眸に、炯々とした光が灯った。
「あいつ……いつか、絶対に寝首を掻いてやる」
物騒なことを怨念の籠もった低い声色で吐き捨てる。
「やめておけ。あの人のことだ、遠慮容赦なく返り討ちにしてくれるぞ」
褐色の眼差しが、冷静に指摘する田宮へと向けられ、
「どうかな?」
伊達は首を傾げながら、微かに笑みを浮かべた。
「やるんじゃない。俺まで教官に睨まれる」
そうでなくとも自分とこの男とは、何故か、一緒くたに取り扱われているのだ。
田宮は伊達に釘を刺すが、彼は笑うだけだった。
全く……あの外道な教官に睨まれるなど、冗談ではない。そんなことになったら、一体どういうことになるか……。
「やっかいの肥だめに落ちるくらいならいいが、どう考えてもそれ以上の事態になるぞ」
お前が落ちる分にはいっこうに構わんが、俺まで道連れにするな。
釘は釘でもあっても、五寸釘でもぶち込んでおいた方がいいのだろうか?
田宮が頭を悩ませていると、
「なんだ、一緒に落ちてくれないのか? 冷たい奴だな」
伊達は笑いながらそんなことを言い放ってくれる。
「あの人を敵にしたら、どんなペテンを使ってくれるかわからんぞ」
はっきり言って、敵に回すには始末が悪すぎる。かといって、味方にしたならば、したで余計始末に負えない気もするが。
「ならば、いっそのこと、機銃でもぶち込んでやろうか」
練習機で突っ込んだ方がてっとり早いかもしれんな。
幼なじみのとんでもない発言には、さすがに唖然としてしまった。
「……伊達……そこまで思い詰めているのか?」
田宮は思わず、机に肘をつき、額に手を当てて溜め息をつく。
「冗談だ。やるわけがない」
彼はきっぱりと否定し、莞爾と笑うが、その剣呑ともいえる眼差しは健在だ。
田宮はまたしても溜め息をつく。
そして、再度、釘を打ち込もうとして口を開いた刹那、目の前の男の名を呼ぶ聞き覚えのある声が、練習場から聞こえてきた。呼ぶというよりも、がなりたてるという表現の方がふさわしいかもしれない。
「噂をすれば、鬼怒田教官がお呼びだ」
げんなりとしたように呼ばれた当人は盛大な溜め息をついた。
「……まだ、時間になっていないはずなんだがなぁ……あぁ、束の間の平和が終わってしまった……」
伊達は嘆きながら、椅子の背凭れに身を預けて天を仰いだ。だが、直ぐに振り切るように身を起こし、傍らにあった時計を手に取って立ち上がる。そして、未だ手にしていた煙草に唇をつけ、一度だけ深く紫煙を吸い込むと、
「やる」
そう言って、残り少なくなった煙草を田宮の唇に銜えさせた。
田宮は椅子に腰掛けたまま、彼に向かって軽く敬礼する。彼も笑みを浮かべて敬礼を返した。
外からは伊達を急かす怒号が聞こえてくる。鬼怒田の声に追い立てられるように、彼は踵を返して軽快に走り出した。
伊達から押しつけられた煙草を吹かしながら、田宮は窓の外に視線を転じる。もう暫く待てば、彼の乗る機体がその姿を現し、空を翔る。
遥か遠方まで広がる蒼穹に、さぞかし映えることだろう。
田宮はその光景を心待ちにしつつ、背凭れに背を預け、紫煙を吐き出した。
(2003.12.20)