その甘さが命取り
彼と直接、言葉を交わしたことは、一・二度しかない。自分が連合空軍に移籍し、宗方及び鬼怒田の私兵となることを強制的に誓わされたときなどに、数回、会ったくらいなものだ。そのほかは、エトロフでの空戦中に管制機を落とせ、と叫んでいたことくらいしか覚えていない。
そんな人間が、扉からひょっこりと顔を出し、自分の名を読んで手招きしている。
確か名前は……。
伊達英明は首を傾げながら、彼に近づいた。
そうだ、確か、大日本帝国諜報局局員・夏目尚康。
「何か?」
内心、密かに身構えつつ、伊達は彼に尋ねる。
「あ、いや……今日は計画主任からの伝言とかじゃないんだ」
確かにあの宗方と鬼怒田のことだから、自分に外道な命令を直接、押しつけてくるはずだ。他人を間に置くことは、ほとんどない。
だとしたら、何事か。
全く見当のつかない伊達は困惑に眉を寄せた。そんな彼に苦笑し、夏目は口を開いた。
「個人的な頼みがあるんだが、ちょっと時間はあるかな?」
先程まで談笑していた笹井と坂井も、興味深そうな顔でこちらを見ている。
「あるにはありますが、なんでしょうか」
簡単に片のつく話だろうか?
訝る伊達の返事だったが、何故か夏目は安堵したような表情になった。そして、意を決したように口を開く。
「悪いんだが、少し射撃を私に教えてくれないだろうか?」
事務方がまた何故。
唐突な彼の要望に伊達は面食らう。だが、すぐに合点がいった。
モントリオールで敵空挺団による空港攻撃があったのと前後して、軍団司令部にも敵戦闘団の襲撃があったと聞いた。そこに彼も居合わせたのだろう。
……事務方だってのに大変だな。
思いつつ、彼の顔を見つめる。
自分のような職業軍人ならば諦めもつくが、彼の立場だと、どちらかといえば巻き込まれる場合の方が多そうだ。
戦意高揚のために話を書けと、引き出された例の曲垣は民間人といえども、軍属の経験があることから、多少なりともの心得はあるらしい。しかし、根っからの文官であり、後方で諜報/連絡役を務めることの方が多い夏目には、あそこまで混沌とした戦闘状態は初めてだったのだろう。
「また、いつ何どき、あぁいった目に遭うかわからないと思ってね」
さすがに自分の身くらいは守れないと、邪魔になるだけだから。
言って、夏目は照れくさそうに頭を掻いた。
「当面の目標は『計画主任を撃てるようになること』」
伊達は彼の発言に目を見張る。だが、直ぐに笑みを浮かべた。
心意気は買うし、協力を惜しむつもりはないが、またとんでもないことを言い出す諜報員だ。
「それは、敵兵を倒すより難しいと思います」
「やっぱりそうかな?」
伊達は無言で頷いた。
「そうか、それは困ったな」
「第一、そんなことができるのなら、私が先にやっています」
真顔で言う伊達の台詞に夏目は笑いだした。
「遺恨が深いね」
計画主任も敵だらけだな。敵しかいないんじゃないか。
彼は言って、苦笑いを浮かべる。
「それを……少しくらいは引き受けられるようになれるといいんだけどね」
伊達は僅かに目を眇めた。
自分の身を守るというのも、宗方を撃つというのも方便で、そっちが真の目的なのかもしれない。『守りきるのは無理だが、背中くらいは預けてくれ』といったところか。まぁ、きっとあの外道のことだから、そんなことを耳にしようものなら、一体なんの冗談だ、とか一蹴されるのがオチだろうが。
しかし、伊達は姿勢を正した。彼に教えるのは、やぶさかではない。ただ、その前に念のために確認したいことがある。
「ところで、宗方中将の許可はもらったのですか?」
いくらなんでも、そう簡単に民間人に対して、射撃訓練を教え込むわけにはいかない。宗方は外道に見えても、軍人/民間の線引きについては、かなり厳しい。逆に言えば、軍人になった瞬間からの扱いは、容赦のないものとなる。おまけに言うならば、それは退役したとしても同様だ。
その点、夏目は微妙な境界線上の存在かもしれないが、戦闘訓練など受けたことはないだろう。そうなると、やはり民間に等しい、若しくは準ずる立場にいるといえる。
「やっぱり、もらわないとまずいかな」
夏目の言葉に伊達は頷いた。
「そこをなんとか」
頼み込まれても、宗方に無断で引き受けると面倒なことになりそうな気がする。いや、確実になる。密かに教えたのが彼にばれでもしたら、今まで以上に外道な注文をつきつけてくるに違いない。できれば、このまま一搭乗員として、暫くの間、謀略には巻き込まれずにいたいのに、そんなことになってしまっては大変困る。
「そう言われましても、私の一存だけでは」
夏目には悪いが、宗方の了解なしには関わりたくない、というのが彼の本音だ。
「言っても中将に却下されるのは、目に見えていたからね……できれば、あの人には知られないようにしたかったんだが」
言いながら、夏目は肩を落とした。
「でしたら、私と一緒に、計画主任に掛け合ってみますか?」
あまりにも夏目が落胆しているように見えたため、気の毒になった伊達は、そう提案してみる。
……それが間違いの元だった。
要するに、彼は甘かったのである。その甘さが、今まで己を何度も生命の危険に晒してきたということを、すっかり忘れ去っている。
伊達は、一転して完全に目の据わった夏目の気配に呑まれ、僅かに身を引いた。だが、すぐさま、夏目に両手で胸倉を掴まれて引き寄せられた。
「行こう! 今すぐ、計画主任のところへ行こうっっ!」
絶対に逃がさん、と言わんばかりに彼は伊達を掴んで引っ張る。そして、笹井と坂井に対して断りを入れた。
「笹井少佐、坂井中尉! 彼を借りて行きます!」
「ちょっ……! うわっ」
夏目に引きずられて行く伊達に対し、残された二人は、彼の行く末を案じたのか、哀れみの混じる眼差しで見送っていた。
こうして……伊達は再び、ここに地獄巡りの記念すべき一歩を記したのだった。
(2004.1.24)