特別賞与
傍らにいる宗方がハワイにいる臨時旅団長と話している声が聞こえてくる。
とんでもない予定変更はあったが、合衆国赤軍を撤退まで追い込み、とにかく終わった。
電話を切った宗方は、憔悴したように指揮官シートへと身を投げだし、眉間を指先で揉んでいる。
不眠不休は向こうもこちらも同じだ。いや、こちらの方が生命の危険が及ばないだけ、ハワイ旅団よりも遥かにマシに決まっている。とはいえ、宗方と同じ場にいることで、別の何かを消耗する気もするが。
夏目は思いつつも、大きく息をついた。
「お疲れさまでした、計画主任」
それにしても、あの話を聞かされたときには、本当にどうなることかと思った。いっそのこと知らない方が良かったと思ったほどだ。
ただ、あの一件のおかげで彼に真実を伝えることが、ことと次第によっては苦痛を伴うのが身に沁みてわかった。
嘘が甘美であればある程、真実は残酷な物だ。否。その逆か。真実が残酷な物であればあるほど、嘘をつきたくなるのだ。一時の気休めだとわかっていても、人はそれに縋りつく。縋りつきたくなる心境も理解できないでもないが、彼の前でそれは許されない。
要するに……どんな残酷な真実であっても、把握さえできれば対処法はあるということだな。
その辺りの対処については、目の前にいる極悪非道な計画主任に任せるしかない。だが、彼にとっては、少なくない人命が失われることさえ勘定の一部に含まれている。結局、自分は彼らをその出血へと含める作業の片棒を担いでいるのだ。
同じ穴の狢。
そんな諺が彼の頭を掠める。
一瞬、夏目は自己嫌悪に陥るが、それを振り払うために大きく頭を振ると、悪魔的な大佐へと目を向けた。そして、彼が煙草を箱から抜き出したのを見て、眉を寄せる。訝る彼をよそに宗方は煙草を銜えて火をつけた。
「漸く心置きなく一服できる」
言って、深々と紫煙を胸に吸い込んでいる。
「あれ? 大佐は禁煙していたんじゃありませんでしたっけ?」
「神と同じことを聞く……アレはやめだ」
宗方は蒸気機関車よろしく、盛大に紫煙を吐き出した。彼の周りに霞がかかる。
「それでは、私は向こうに戻ります」
挨拶をしてブースを出て行こうとすると、
「あぁ、夏目君。ちょっと待った」
宗方は言いながら、手招きする。そして、彼は首を傾げて近づく夏目のネクタイをいきなり引いた。
不意をつかれた夏目は体勢を崩し、宗方の膝の上に座る形になってしまった。内心、動揺するが、顔に出したくはない。
「なんです?」
夏目は努めて冷静を装い、彼に訊ねた。一方の宗方は吸殻を灰皿に放り込む。そして、口を開いた。
「特別賞与でももらおうかと思ってな」
「は?」
一体、何を考えているんだ、この計画主任は。味方であっても、全く手の内を明かさないのが、この人の悪い癖だ。『敵を欺くには、まず味方から』を体現しているようだが、頼むから少しは振り回される方の身にもなってくれ。
思っていると、またしても、彼にネクタイを引かれた。
「あのですねぇ、大佐……っ」
抗議を遮るように唇が重なり、夏目の口腔に煙草の味が広がる。
頭の中が真っ白になり、思考が停止した。
息苦しさに、純白の軍服を掴む手に力がこもる。
頬が熱くなるのは、羞恥のせいなのか呼吸困難のせいなのか、自分でも判断がつかない。
唇を離された後も、夏目は呆然と宗方の顔を見つめていた。
「けっ、計画主任っっ!」
漸く衝撃から立ち直り、彼は彼から逃れようともがくが、ネクタイを掴まれたままのため、立ち上がろうにも立ち上がれない。
「何を考えているんですか、あなたはぁっ!」
「だから、君から特別賞与をもらっている」
しれっとした顔で答える宗方。
そんなすました顔を一発くらいは殴ってやりたい衝動に駆られたが、どうせ防がれるか避けられるのが関の山だ。夏目は拳を固めたまま、やり場のない憤りを辛うじて堪える。
「何はともあれ、ご苦労」
数回、軽く肩を叩かれ、あっさりと膝の上から降ろされた。
それが、どことなく淋しい。
宗方があまりにも淡白なために、そんなことを思ってしまった自分にまた苛立つ。
そんなことを思っている夏目をよそに、宗方は立ち上がって、長椅子に移動した。そして、その上に寝転ぶ。
「大佐?」
「さすがに疲れた」
言って、彼は肘掛けに組んだ両脚を乗せ、薬指の欠けた片腕で目を覆う。
夏目はその仕種を目にして、彼が泣いているのかと……泣きだすのかもしれない、と思ってしまった。
この悪魔はそんな甘い感傷や良心など持ち合わせていないことは、つい先程も嫌というほど思い知らされたし、頭ではわかっているはずなのだが、なんとなく放っておけない。
既に歯車は回り始めている。動きだした歯車は、最早誰にも止められないのだ。これから先もやらなければならないことは山ほどある。歩みを止めてしまったが最後、新たに勘定へと含められる人間が増えるだけだ。その出血をできうる限り少なくする。今の自分にできることは、それくらいしかない。
宗方に覆いかぶさるようにして、長椅子の背凭れに手をつき、彼は言った。
「こうなったら、とことんまで。堕ちるのならば、おつきあいしますよ」
毒を食らわば皿までも。とはいえ、皿まで毒ということはないだろう。もしかすると、解毒剤になっている可能性だってなきにしもあらずだ。
まぁ、それはかなり低いだろうけどね。
夏目は独り苦笑する。
「計画主任と一緒ならば、地獄の鬼も避けてくれそうですから」
だから、どこまでだっておつきあいします。堕ちるならば、地獄の底までご一緒に。
彼は強い口調で続けた。腕を退けた宗方と視線が絡む。
「そうか……」
一蓮托生の共犯者を見つけた、といった心底嬉しそうな笑みを目にして、心の内でほんの少しだけ後悔するが、ここまで来てしまっては後戻りなどできない。第一、後戻りは、彼が許可してくれないだろう。
「まぁ、あまり無理はしないようにな」
その言葉は大仰な熨斗をつけ、彼に返してやりたい。
夏目は思いつつ、宗方の上半身を強引に引き起こすと、長椅子の端に腰をかけた。
「何をしている?」
「こうするんです」
夏目は言いながら、今度は彼の身体を引き寄せた。そうすると、ちょうど宗方に膝枕をする体勢となる。彼は宗方の顔を真上から覗き込んだ。
指揮官ブースに誰か入ってきたら、どう対処すべきか。
今更ではあるが、そんな懸念が頭を過る。こんな状態を見られたら、また頭の痛いことになりそうだ。
まぁ、そのときはそのとき。適当に処理することにしよう。
宗方が腕を伸ばし、夏目の額に幾筋か落ちた前髪を軽く引っ張った。
「珍しい」
「労っているだけですから、お気になさらず」
憎まれ口を叩いてはいるが、顔が赤くなるのが自分でもよくわかる。
「特別です、特別。今回だけですからね」
「そうか」
宗方は微笑む。そして、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
(2004.2.14)