棗の実
「何ですか、これは」
夏目は首を傾げつつ、分厚い冊子を拾い上げて表紙をめくった。すると絢爛たる絵が目に飛び込んできた。
「あぁ、それか。軍装の裏地だ」
業者から借りてきた裏地意匠見本帳というやつだ。
宗方は言って煙草を銜えた。
「まったく軍装手当でも間に合わん」
宗方ほどの階級ともなると、彼の性格や素行は余所に置いておくとして、身なりに関しては部下の手本とならなければならない。しかし、軍装関係一式を揃えるには、多少の官費が支給されるものの、ほとんどが自弁だ。
昇進するのも、なかなか大変だ。この人もこの人で黙って立って、敬礼の一つや二つでもすれば、それなりに見栄えはいいからな。うん、黙って立っていれば。
夏目はそんなことを胸のうちで思いながら、ページを繰る。
「それにしても、なかなか面白いですが、意外にも派手揃いですね……」
可愛らしい柄から壮麗なものまで色とりどり。花鳥風月はともかく昇り竜やら虎、風神雷神、そしてそれも総刺繍ともなると、一体どこの誰が誂えるのかと首を捻りたくなってしまう。
「羽裏のようなものだろう」
愛想の欠片もない軍装ならば裏地で遊ぶしか面白味がない。
宗方はぼやきつつ、紫煙を吐き出した。
地味派手……。
そんな言葉が夏目の脳裏を過ぎる。
「あぁ、そういえば、神の裏地もすごいぞ。今度、横須賀に行ったら、とっ捕まえて脱がしてみろ」
「そんなことやらかしたら、私は司令部を出入り禁止にされてしまいますよっ!」
宗方の発言に夏目は血相を変えた。
それでは通常業務どころか、この戦局に影響してしまう。そもそも、力ずくで脱がそうにも、彼の腕力で適う相手ではない。
「何も力ずくでひん剥けとは言っとらん。口先だけで神を乗せて何とかしてみせろ」
宗方が楽しそうに笑う。
女ならまだしも、何が悲しくて、男を脱がすために口説かなければならないんだ。
夏目のこめかみが引きつった。
「万が一の場合は、首謀者は計画主任だと告白しますので、それでもよろしければやってきますけど」
夏目はその話題は終わりだと強い口調で口にする。
「で、結局、主任はどんなのにしたんです?」
ここにこれが転がっているということは、彼もこの中から何らかを選んだのだろう。
すると、横から伸びてきた純白の手袋がページを繰る。そして、とあるページで指が止まり、無言のまま示した。
指で示された絵を覗き込むと、淡黄色の地の片隅。ひょろりと描かれた枝に緑の葉が生い茂っている。そして、緑の中に赤い実がたった一つ、鮮やかにあった。
四季を問わない柄のほうがいいんじゃないだろうか?
どちらかというと、これは秋に向いている。
「なんだ、その顔は」
「いえ……案外あっさりしていると思いまして……」
淡白というよりも、少々寂しい。一体、何の意匠なのだろう。
彼は端に書かれた題と説明書きに目を落とす。
棗の実ねぇ……な…つ……。
首を傾げて訝る夏目の表情が不意に凍りついた。
「あ、あの……主任。これってもしか……して」
それ以上は言葉にならない。思考もうまく纏まらない。ただ、彼は口を金魚のようにパクパクと開閉させるのみだ。
「ご名答。君のご推察のとおりだよ」
視線の先、満面に浮かぶ笑みは、悪魔の微笑み。
一方の夏目は蒼白となる。
「か、変えましょうっっ! 変更しましょう、主任っ! こっちの方が絶対に似合いますよっ」
勢いよくページを捲り、張子の虎を見せる。
「生憎だが、もう業者に連絡をいれた」
手遅れだな。今頃は職人が染め始めてるんじゃないか?
霞を吐き出しつつ、宗方は無常にもそんなことを言い放った。
「主任~っ!」
夏目の嘆きをよそに、宗方は煙草をふかしている。
ま、まぁ、そんな他人にむやみやたら見せびらかすものでもないし……。
目の前の人間が見せたりしない限り、誰に知られることもないだろう。
わかるヤツがいるとも思えないしな。
夏目でさえ、意匠につけられた説明書きを目にするまでわからなかったのだ。
だから、大丈夫だよな……うん。
周りが気づかぬことをひたすら祈るのみだ。
頼むから誰にもばれないでくれ。
「顔が赤いぞ」
「誰のせいだと思ってるんですか、誰の」
まったく、この人はもう……。
夏目は頭を抱える。打ちのめされている彼を宗方は楽しそうに見つめている。
そして、当の元凶は、
「まぁ、そういうことだからな。覚悟だけはしておくように」
そう言うと、柔らかに微笑み、煙草を灰皿に押し付けた。
(2004.9.1)