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夢十夜

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 百合の香が鼻を掠めた。

 薄目が辛うじてあく程度に腫れた顔で視界はぼんやりとしか利かなかった。そのなかでちらちらと白い何かが覗くのが見えて、それがどうも先輩の卒業式でみた大降りにましろく透き通る百合の花弁ようで、ああだからあの匂いが鼻先を掠めたのか、おれはそう思って、美しく輝くそれに触れようと無理矢理体を起こそうとして失敗した。どしゃりとごみ溜めの中に音をたてて沈んだ、体が重いもんだと俺ははっきり意識した。その日のゴミ回収は生ゴミだった。すげぇく臭くて水っぽくて不快な中にいるはずなのにあんまりそれを感じなかったな。おれの顔をさ、あいつらはたくさん殴ったわけで、目も開かないはずだったのに、おれはその美しい何かのために瞬き二回で視界を晴らした。そしたら、まぶしいくらいの月明かりの中、そこにいたのを、そいつを、おれは人間じゃないとおもった。もっと、死神だとか天使だとか悪魔だとか、そんな、一等美しい存在。そういう風に、思った。嘘じゃない。真っ黒ずくめの天使、死神。ついにネングのオサメドキ、走馬灯も走らない。自分はここで、この天使だか死神だかに見送られ死ぬことができるならば、何かにむしゃくしゃばっかりして、喧嘩ばかりしてこんなごみ溜めに捨てられる糞みたいな人生でもよかったって、終われると思ったんだ。二回目になるけど嘘じゃない。本気だった。そんで、もし、今、その時に戻れるならその男がそのときも持っていたであろうナイフで自分の喉をかっさばいて死にたいと、思う。まあ、できないってわかっているんだけどな。あれは、おれに目をつけちまったんだから。
 大きな月が掛かっていた。あれは、おれが花弁とまちがえた透き通る肌を持った顔をこちらにむけて、無表情なのに潤んだような印象的な瞳でこっちを見ていた。おれは言葉を発することが出来なかった。殴られた肺の辺りが軋んでいたこともあるけど、それが無くてもしゃべることは、許されていなかった。そんな眼だった。あらゆる発言は、彼の前では無意味になる。彼にとどくまえに消失する。それをきっと本能の方が先に理解していた。まっすぐな眼とかち合う。そらしたい、でもそらした途端彼に失望される気がした。緊張とは、ちがう。感じたことがないから分からないけれど、神聖な何かと対峙したとき、そんな。相手は、本当に神か、なにか得たいの知れないものの気がする。気づかずこめかみを汗が伝う。そのとき涼やかな声が凛と大気を揺らした。容姿にあうその声は透き通って透明におれの名前を呼んだ。きだまさおみくん。神様を信じたことはない。居るかもしれないけれど、なにもしないやつらだ。だけどおれはそのとき天上から響く声ってのはこれなんじゃないかと思った。黒髪の得体のしれないそいつは、内側からやわらかく発光しているような手でそっとおれの顔を撫ぜた。冷たい手だった。その時腫れて熱を持っていたから余計だろう。それは人間のように皮膚の弾力があって、柔らかかった。無心。そんな心持ちで初めてそれと対峙した。おれは、そう、思った。

 あれから月日がたつが相も変わらずうつくしい存在はましろい百合の花弁のような肢体を投げ出してシーツの海の中にいた。今日は波江がいないから。分かりやすく誘われた指先に付き合うことはなかった。つまらないという唇をみつめながら、じゃあ脱いでください。あんたのみてくれだけはイイと思ってますよ。そう呟いたのはいつかの夜だった。あ、そう。そういってなんの躊躇いもなく肌をさらしたやつ。やつの部屋から見える夜景。月みたいに光る肌をさらしながら笑った。感情のあるその目は苦手だ。人形になってしまえばいいと時おり思う。寝転がった男はおれの手をとって指先をなめた。あたたかくやわらかく湿っていた。きもちわるい。それは人間だった。


作品名:夢十夜 作家名:しンバル