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なつがはじまる

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果物屋さんの軒先に、あかいきれいなさくらんぼが並んでいたので、おもわず足をとめてしまった。赤ん坊のほっぺのような色だ。ひとつ噛んだら、あまい果汁が口いっぱいにひろがるんだろう。わたしは1パックを手にして、店のおじさんに差し出した。お値段は、そりゃあけっこうしたけれど。おじさんはにこやかにそれを袋にいれて、そうしてサービスだとりんごをひとつくれた。うれしくなって、ちいさく笑った。
初夏の風が素足をすりぬけて、あわい花柄のワンピースをゆらした。袋をもっていないほうの手で、カンカン帽をおさえた。

もうすぐ夏がくる。


わたしは、とてもずるいおんなだ と最近、とくに正臣と暮らしてはじめてから、おもわずにいられない。それは、もちろん前からも思っていたことだけど、さいきんひどく顕著にあらわれている。たとえば、正臣が疲れていることはわかっているけど、彼にただいまのキスをしてもらいたいし、今日あったことを話してもたいたいし、二週間に一度でいいから、愛情の確認作業も、してもらいたいとかおもうのだ。
そうしてなるべくそれは、わたしだけに、してほしいっておもう。

前までは、正臣がいくら他のおんなのこに夢中になっていたって、かれは絶対にわたしのところに戻ってくるっていう、確固たる確信があったから、わたしは、にこにこ笑いながら狭い病室にとじこめられていたけれど(いや、とじこもって、いたのだけど)、最近はどうやらそれが崩れてきているらしい。正臣はわたしのために色々なものを捨ててくれて、そうしてわたしは捨てるべきものなどなにもないから、身一つを正臣に提供して、こうしてふたりでいる今、この事実は疑いようのないものだ。確実に前よりも、信用条件はあるというのに、どうしてだろう?

ひとりでお留守番をしていると、もしかしたら正臣が帰ってこないかもしれないだとか、となりで寝ているのに、目を覚ましたら正臣がいないんじゃないかとか、そんな、かれに対してすごく失礼なことを考えて(だって、正臣は、そういうひとじゃないから)しょうがなくなる。そのたび、目のおくと、心臓のおくが、いたくなって、しめつけられて、まぶたの上が水っぽくなって、帰ってきた正臣や、起きた正臣に、だきしめられてなぐさめられるんだけど(ときには怒られるんだけど)、このよくわからないどろどろが、完全に、なくなることはないので、こまるんだ。






「さくらんぼ?」

食後のデザートに、お昼に買ったさくらんぼを、さっと水洗いして食卓に出したら、向かいに座っている正臣がうれしそうに目を輝かせてくれた。やっぱり買ってよかったなあ。食卓といっても、そんな立派なものじゃなくて、こたつ机の、布団をはずしたものだ。

「うん、おいしそうだったから、つい」
「いいじゃん、すげえうまそう」

銀のボールに入っているさくらんぼは、水気を帯びて、蛍光灯に照らされてきらきらと輝いている。赤みがなんだか、増したみたい。
正臣がひとつつまんで、口にいれた。ぷつりと茎からはなされた音がする。

「やば、うめえ」
「ほんと?」

わたしもひとつ、手にして、口にする。実をかんだら、口の中ではじけて、あまい果汁がとびだす。夏の味だ。夢中になって口のなかで転がしていたら、ごりっと、種まで噛んでしまった。白い小皿に吐きだす。

「沙樹さ、さくらんぼに花言葉あるの、知ってる?」
「ううん、知らない」

かたわれの実を口にしながら考える。そもそもさくらんぼの花ってどんなのだっけ。桜に似ているって、なんか小学校の理科の時間に習ったような気がするけど、よく思い出せないや。正臣は得意そうな顔をして、さくらんぼを宙に放り投げて、口のなかにおさめた。器用なひとだ。種も器用に、吐きだす。

「上品って、意味らしいぜ」
「へえ、そうなんだ。確かにそれっぽいよね」

赤くて、小ぶりで、だけど派手ではなくて、あるところにきちんとある感じ。上品ってことばが、相応しいようにおもえる。わたしはきらきらしているさくらんぼをつかんで、目の前にもってきた。上品かあ。

「それともうひとつ」

正臣が手をのばして、わたしが手にしていたさくらんぼのかたわれをちぎって、

「小さな恋人」
「え」

そのまま体をのりだして、かるいキスをされた。触れるだけの、やさしいやつだ。

「小さな恋人って、意味もあるんだって」

くちびるに、息がかかるくらいの近距離だ。近すぎて正臣の顔がよく見えない。もうなんども、交わしてきたことだけどわたしはやっぱりまだ、慣れなくて、くらくらして、それは正臣がかっこよすぎるからいけないんだけど、また彼のことが好きだなあとおもう。
そうして同時に、またあのどろりとした、ずるい感情が芽生えるのだ。正臣の仕種だとか、声だとか、息だとかを、もうなにひとつ逃したくはなくて、それこそ、さくらんぼみたいに、ひとつにくっつけて生きていけたらいいのになあとか、不可能に近いことをおもうし、願う。わたしはまだひどく幼いから、その希望にすがることしか、できない。どこにも、行ってほしくない。ほんとうに、ずるいおんななんだ。
正臣が、顔を離そうとするので、わたしは彼のあたまを両手で抱きかかえた。すこしだけ、彼が震えていた。

「わたしはどこにもいかないよ」

だからあなたもどこにもいかないでほしい。それがただのこどもの我がままだとわかっていても。だって、大人になるには、わたしたちにはすこし早いのだ。
網戸にしていた窓から、雨のにおいがする風がはいってきた。すこし生ぬるいそれが、正臣のきれいな髪をゆらした。夏が、はじまるのだ。
作品名:なつがはじまる 作家名:萩子