彼らがあやめた物語
それは、列車の床に落ちたていた歴史書だ。いやに美しい装丁と質素な床との対比。そのミスマッチさ。だから記憶にのこっているのだろう。もしかしたら列車じゃなく教会だったかもしれない。記憶の輪郭はたよりないね。ただ床なのは確かだ。本来ならば図書館の資料室に保管されるものだと、素人目にもわかる書物だった。それが無造作に落ちていたんだ。
僕はこの時いくつだったかな。文字は読めたはずだ。拾って中を確認することも。内容など欠片も思い出せないが読んだはずだ。
いや。
読まなかった。中を改める間もなくそれを誰かに手渡した。そうだ。その歴史書は僕の目の前でポケットから滑り落ちたものだ。美しい装丁を、貝殻のような紋章を表にしながら床に。だから拾って、書物が落ちたポケットの、コートの持ち主に返したんだ。
ああ。そうだ。列車の中だ。僕の向かいに腰かけた彼がコートと歴史書の持ち主だった。
持ち主の彼はひとりではなかった。隣に連れがいた。ボックス席であったから声だけしか聞いていないし、その声もとっくに耳から流れてしまった。でも、美しいと思ったことは覚えているから。そう、きっと美しい連れだったのだろう。
それ、まだ持ってたの。
細かくは覚えていないけれど美しい声はそんな意味合いのことを言っていたと思う。その言葉に二言三言返した彼は笑ってたよ。オレが絶った歴史だからと。言って笑ってたよ。
思い出した、やっと思い出したよ。なぜ、こんな他愛もないことを覚えていたのか。
そう僕は彼がいった言葉に、とても心を傾けたんだ。恥ずかしいことだが空想までしてしまった。
彼はどこかの国の王様で、でもとてもうだつの上がらぬ弱虫。大臣たちはこれ幸いに私腹を肥やす。ところが彼は眠れる獅子。ある日とうとう目覚め大暴れ。大臣を倒したのはいいけれど暴れ過ぎて国民から嫌われてしまった。
だから、弱虫の王様から孤高の旅人へ転職した…という風にね。
今の時代からしたらありふれた話だ、笑ってしまうだろう?でもね、僕は、今考えると結構あたりではなかったかと思うんだ。
空想した話だけれど、これはまるっきりオリジナルではないんだ。僕の故郷で実際あったことがもとだと思う。噂はすごいね、不正確だけど何かが起きたことは隠せない。詳しくはしらないよ、知ってたら、僕はとっくに刑務所か墓穴の中だ。
なんてね、冗談だよ。単にあれは愛の逃避行であったのかもしれない。ああそっちのがしっくりくるな。なぜってその二人は、とても、あの時の僕らと似ていたからさ。
だからもう、僕はこのことをしゃべらない。今しゃべったのはもう二度と思い出さないためだ。死ぬ前に思い出すのは君のことにしたいしね。