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鎌倉心中

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 いつもどおりの口論のあと、どちらが言い出すでもなく、心中しようか、ということになった。
 幸いにも鎌倉には海がある。二人で家を出て、切符を買い、江ノ電に乗った。平日の昼間、電車には僕らのほかに誰もいない。外は曇っていたが、明るかった。
 ねえ、と彼女が言った。キャラメル持ってる?
「置いてきちゃったよ。心中するんだし」
 僕が言うと、彼女はぷいと窓の外に顔を向けた。梅雨入りの海は鈍い色をしている。彼女の瞳の中でそれが重くたゆたうのを、僕は黙って見ていた。
 海岸の駅に降りると潮のにおいが濃かった。
 あとは、とうもろこしの焦げるにおい。
 ぐうう、と彼女のお腹が盛大に鳴る。きまりが悪そうに彼女は僕を見た。僕はため息をついた。
「お腹、空いたの?」
 彼女がうなずく。僕は笑った。
「どう? ふたりで一本」
「いや、止めておくわ」
 意思の重さに耐えるように、彼女はぐっと沈んだ表情をした。
「死んだとき、お腹に何か入っているのは嫌なのよ」
「なんで?」
「美しくないわ」
「死んだら関係ないよ」
 むっとした表情で彼女はまたそっぽを向いた。僕は視線を変えた。道の先に『アイス』と書かれたのぼりが翻っている。これなら。僕が無言でそちらを指差すと、彼女は輝くばかりの笑顔になった。
 ふたりでソーダアイスを一個買って、堤防に座って食べた。海は凪ぎ、風は穏やかだった。アイスの甘さは歯の根に染みる。一口、二口で降参して、僕は彼女に残りを任せた。渡すときに触れた手の、温かさ。
 不意に、体を震わせるほどの幸福感が僕を包んだ。涙が出そうなほど幸せだった。
 このあとふたりは心中するのだ。


 そのはずだったんだけど。

 結局、心中はしなかった。
 彼女が冷蔵庫にひき肉を忘れてきた。賞味期限は今日まで。もったいないので、帰って食べることにした。もちろんハンバーグだ。
 家についてからずっと、彼女ははしゃいでいた。風呂に入るというので、僕はひとり、テレビを見ていた。CMの時、トイレに行こうとしてふと洗面台を見ると、彼女が裸で立っていた。泣いていた。
 気づいてはいたのだ。おそらくふたりが行き着く海底は別々なのだろうと。それでもふたりがふたりでいる限り、いつかまた僕らは海へ向かう。ふたりで砂浜へ行き、ふたりで堤防に座って、夕暮れの海を聞いて。
 でも今は。
 テレビを消すと、そっと目を閉じた。頭の中には鎌倉の海がある。静かで、穏やかで、暗い。僕はその中にひとりで身を投げた。
作品名:鎌倉心中 作家名:桐村きりを