あたしの乾いた地面を雨が打つ
声をかけたのは、それが見知った顔だったからだ。
久しぶりの休み。にもかかわらず足を踏み入れた池袋。
仕事場でもあり住処でもあるから、ここを通らない限り外の世界へは出られない。
それは声をかけた相手も同じようで、更に言うなら、『大抵のことはこの街で間に合う』という概念も同じのようだった。手に持った大型スーパーの袋がかさりと揺れる。
休日に出かけるような娯楽施設、例えばゲームセンターやカラオケ、映画に食事、ジェットコースターに乗りたいなんて思わない限りは、この街で済んでしまう。
最も、話しかけた相手は、そういうのが好きなようには見えなかったのだが。
「・・・ええと、竜ヶ、みね?」
「正解です」
「よし、竜ヶ峰な。今度こそ覚えた」
竜ヶ峰竜ヶ峰・・・と繰り返すと、自分より頭二つほど背の低い少年は、くすりと笑った。
その顔に少し違和感を覚える。違和感も何も出会ってから数えて三回目の対面なのだが、ぼんやりと静雄の中にあった竜ヶ峰という少年のイメージからは、少し、離れた笑い方だった。
「この前、あれから大丈夫だったか?」
「へ?」
「倉庫んとこで倒れてただろ」
「あ・・・・・・・あぁはい、大丈夫でした」
「そか」
特に用があったわけではない。本当に、知り合いだったから声をかけた。それでも静雄は今、この少年を少しでも引き止めたほうが良いと感じていた。
それは漠然としていてあまりに曖昧だったけれども、静雄は自分のこの野生の勘を疑ったことがなかった。故に、何か、と言葉を捜す。
この少年と関わった数少ない出来事の中から、何か。
「・・・・そういや、」
「?」
ふ、と思い当たる。初めて『言葉を交わした』のは、確か鍋の時。けれどその前、もっと前に、この少年には見覚えがあった。
頭の中が怒りで真っ白になっていたから、今の今まで忘れていたが、確か初めて『会った』とき、こいつは―――
「お前、初めて会った時、ノミ蟲野郎と一緒じゃなかったか?」
「?ノミ蟲?」
「・・・折原臨也」
「あ、臨也さん」
ポン、と手を叩いた少年を見て確信する。そう。そうだ。確かに彼は自分の宿敵と一緒にいた。あの野郎ともう一人、鍋にも同席していた眼鏡の少女と、三人で。
じわじわとそのときの記憶が戻ってくる。あの鍋に呼ばれて、セルティとも親しげに話していたのだから、恐らく臨也側の人間では、ない。
ならばなぜ一緒にいたのか。静雄の中で当てはまらないピースがゆらゆらと揺れる。先ほど感じた違和感と共に。
「臨也さんに、助けてもらったんですよ」
「・・・は?」
「園原さんが絡まれてて、その、僕がそれを見かけて、」
「・・・・おまえを、助けた?」
「はい。僕というか、僕たちというか・・・あのままだったら多分僕も絡まれて、終わってたと思います」
「・・・・・・」
「だからあの、臨也さんって良い人だなって、僕は、その、思ってるんですけど・・・」
語尾が少しずつ小さくなっていく。恐らく自分の怒りを気にしてのことだろう。けれど今の静雄はそれよりも、その臨也の不可解な行動の方が気になっていた。
あいつが、人を助ける。何の意味もなしに?何の、利益もなしに?
――――ありえない。
「静雄、さん?」
頭二つ分小さな少年の顔を見つめる。怯えの中にある好奇の色。それは、初めて会った時も、鍋を囲んで言葉を交わした時にも、あった。
けれど今は少し色が違う。もっと濁っていて、暗い。何かを知った色の中にちらちらと揺れるのは、
(黄巾族のガキも、こんな瞳をしてる時があった)
―――臨也の色だ。あいつの、吐き気のするような罠の糸の色。目の前の少年は、獲物だ。あいつの、次の―――・・・
そこまで考えて、自分がなぜこの少年を引き止めたかったのか気付いた。あいつの関わった人間は、次々に堕ちていく。多分、それを止めたかった。けれど、自分がこの少年に感じた違和感は、きっと『これ』じゃない。
「・・・お前、気をつけろよ」
「へ?」
「ノミ蟲野郎は、お前が思ってるような奴じゃねぇ」
「あ・・・・・」
「あいつの言うことは、大抵がでまかせと自分勝手な思い込みだ。お前のことを考えて言ってるわけじゃねえから、」
「自分のことは、自分を信じて自分で選べ」
受け入れた顔だった。変化を受け入れて、既に動き出している者の瞳だった。
これが臨也の手の中で踊らされるだけの存在だったならば、きっと静雄は殴ってでも止めていたと思う。
けれど。
「・・・はい」
「何かあったら、俺でも、セルティでも、新羅――はあんま頼りになんねーが、話くらいは聞いてやっから」
「・・・はい、ありがとうございます」
「あと、あの眼鏡の子も、紀田?も、いるんだろ、お前」
「?」
「友達」
少年の目が少しだけ開かれる。一瞬、初めて会った時のような色を取り戻して、そしてすぐ、元の色に戻った。
静雄はそれを見ながら、ああ、友達のためか、と漠然と思った。こいつの変化は、臨也に踊らされたからだけじゃない、きっと大事なもののためにあったこと。
それを邪魔する気は静雄にはさらさらなかった。むしろ素直にそう思えることが、少し、羨ましく思えた。
くしゃり、と少年の頭を撫でる。目を白黒させている少年に、静雄なりの優しさで、何か伝わるように。
ゆっくり手を離すと、呆然、という顔が目に入った。思わず吹き出して、じゃあ、と声をかけてすれ違う。
はい、また―――・・・という声が風に溶けるのを聞きながら、静雄はゆっくりと歩き始めていた。一歩一歩、大げさに。
(また会うときまでに、あの少年は本来の色を取り戻しているだろうか。)
それは先ほど人垣の中に消えたノミ蟲野郎の対応次第だと、軋んだ静雄の拳が応えた。
作品名:あたしの乾いた地面を雨が打つ 作家名:キリカ