海よりも遙か
今日の夜がこんな綺麗な夜でよかったと思いながら、笑みを浮かべた。それはすぐに崩れたけれど。
(本当は笑いたくなんかないのに、もう笑うことしかオレの出来ることはないんだよね)
顔が歪んだのが自分でもわかった。泣きそうだ、と思った。もうこれ以上我慢できない、鼻の奥が痛み始める。マズイ、と思ったところで、窓の外に人影が見えた。
彼だ。
一瞬でそこまで昇ってきていた涙を押さえ込む。彼の前では絶対に泣けない。泣かない。それが、唯一最後にオレが出来ること。そう何度も言い聞かせて、椅子にかけていた上着を手に取り羽織りながら階段を駆け下りた。
玄関を開けると、門の近くに立っていた彼が驚いたように体を揺らしたのがわかった。
彼が何か言葉を出すより先に声をかける。
「なんとなく、君が来る気がしてたんだ。だから待ってたんだよ」
声が震えないように細心の注意を払いながら出来るだけ穏やかに話す。玄関先の明かりに照らされた困ったように笑う彼の顔は少しだけバツが悪そうで、でも嬉しそうでもあって安堵する。
彼から目を離さずにそっと後ろでドアを閉めると、ガチャリという音が響いた。家から出て外に、彼と同じ場所に出たはずなのに、この音が二人を分け隔てるもののように冷たく響いた気がして、また悲しくなる。それを誤魔化すように軽く頭を振って、そのまま彼に近付いた。
「獄寺くん」
「こんな遅くにすいません。何か色々思い出したら眠れなくなってついつい10代目のところに足が」
「いいんだよ。オレも眠れそうになくて。だから謝らないで」
そう言ったのにそれに対してすぐにまた彼は謝った。もうしょうがないなぁとオレが笑うと、彼も小さく笑う。最後までしょうがないですね、オレ、なんて言って。うん、最後なのにね、と返す。
そう最後なんだ、現実をかみ締めて彼から目をそらし痛む胸を服の上からそっと押さえた。わかっていたのに、その上でこれを選んだのはオレなのに、それでも諦められない思いが全身を痛めつける。
気道が狭まったように息が苦しくて、何度か深く息を吸い込んだ。
「……明日だね」
「はい」
「何か不思議な気分だな。今までずっと当たり前みたいに君がオレの傍にいたのに、もうそうじゃなくなるなんて」
寂しいな、と言っていいのかわからなくてその先は言わぬまま口を閉ざす。どっちにしろ寂しいなんて陳腐な言葉では到底間に合わないんだ。言ってもしょうがないよな、と口は閉じたままにする。それに、言わなくてもきっと彼にはわかってしまっている。そうだろ?
確認するように彼のほうを見つめると、彼の綺麗な顔がくしゃりと歪められた。
あ、と思うより先に強く腕を引かれ、彼の腕の中に仕舞い込まれた。彼の匂いが鼻をかすめる。
どうしようもない愛おしさと悲しみに胸が塞がれて喘いだ。
それをどうとったのかわからないが、彼の苦しそうな声が頭の上から降ってきた。
「すみません。でも今だけ、少しだけ、でいいから」
今までに聞いたことのない声と僅かに震える体が彼の気持ちを表していた。
抱きしめられているというよりも、縋り付かれているように思えた。
何かに縋り付きたいのは、救いを求めているのは、自分よりも彼なのかもしれない。
今までにない彼の姿が、この別れが揺ぎ無い断絶なのだと示しているようで、ますます泣きたくなって、オレも縋り付くように彼の背中に腕を回した。
海よりも遙か
(20080111)