こぼれたもの
私には彼のやりたいことがわからない。
ただ、危ういものを感じていた。
グラスに満たされた赤ワイン。
彼はその中にゆっくりと慎重にコインを入れる。
もう10枚ほどは入れただろうか。
彼の手元に残ったのは残り3枚。
また、一枚、彼は指につまんで水面に垂直近づける。
今度こそ零れる。
私はそう思いながら、息を詰めてそれを見つめた。
じわじわと、近づいて、赤い水面に触れ・・・そして、沈んでいく。
赤ワインは零れない。
ちらりと彼の顔を見ると、さも楽しそうに微笑んでグラスを見ている。
手のひらに残った2枚をもてあそび、ちゃりちゃりと鳴らして、また一枚を摘み上げる。
もう無理だ。
ぷっくりと浮き上がった赤いワインを見て私は思う。
息すらするのを憚れるような、そんな慎重な火村の手つき。
水面に垂直に近づけていくコイン。
触れるか触れないかで、火村が指を離すと、それは水面をわずかに揺らして赤ワインに沈んだ。
まだ、零れない。
「さぁ、アリス。次で最後だ。」
「ん・・・?うん」
「零れると思うか?」
「そりゃぁ、もう無理やろう。次で零れる」
私が答えると、彼はふんと鼻で笑い、最後の一枚を指でつまんだ。
別に何を賭けているわけでもない。
だから、別に自分の予想が当たろうが外れようがどうでもいいはず・・・なのだが、視線は彼の指につままれたコインに縫い付けられる。
水面に垂直に持ったコイン。
触れるか触れないかまで近づけて、そして・・・・
一度だけゆらりと揺れて、底に沈んだコイン。
零れない。
「アリス、コインを一枚かせよ」
「ん・・・?うん」
言われて私は、尻ポケットに入れていた財布を取り出し、その中から百円玉を一つ取って彼に渡す。
「俺は、こいつで零れると思う」
にやりと笑った火村。
彼の眼がキラリと意味ありげに光ったような気がして、私はドキリとした。
もしかして、自分は今、ものすごく危ない綱渡りをさせられているんじゃないだろうか?
そんな考えがふと浮かんだ。
馬鹿らしい・・とは言い切れず、彼が摘み上げた私のコインをじっと見つめた。
心臓がドキドキとする。
先ほどとかわらず、慎重な手つきでそれをグラスの真上まで運ぶ火村。
その手の運びには、わざと零そうなどという気配は一切ない。
これなら、もう一枚くらい、零れずにすむんじゃないだろうか?
何故だか、祈るような気持ちでそんなことを思った。
しかし・・・・
願いは通じず。
私が渡したコインで、表面張力が崩れた。
今まで浮き上がっていた分、予想以上に赤ワインが零れた。
「な?零れたろ?」
言われて、火村を見ると、彼はやけに楽しそうに笑っていた。
嫌な予感。
内心の動揺を悟られないように小さくした唇を噛めば、今度はクククと喉の奥で笑われた。