開幕のベル、ひとつ
指先が震えてならない。無意識に唇に触れると、そこもまた戦慄いていた。マヤは心許ない足取りでふらふらとあてもなく歩いている。行き交う人とぶつかってもそれに気づくことすらない。あからさまに舌打ちし去って行く人を振り返ることもない。
亜弓の舞台を見た。舞台にそう近くもない席だったにも関わらず、亜弓の姿は目の前に迫ってくるようだった。舞台の上で、亜弓は光り輝くように美しかった。髪を振り乱し狂喜のごとく笑う姿すら凄絶なほど美しかった。物語を追いながら、けれどマヤの目はいつだって亜弓を追っていた。魂すべてを奪い去っていくような、そんな女だった。いやそれはきっと、役柄のせいではない。登場した瞬間にマヤの魂を舞台の上から華麗に奪っていったのは、たしかに亜弓自身だったのだ。
「…どうして、……」
呟きは自らの手の内に落ちて消える。どうしてあんなひとがいるの。亜弓に出会ってから何度こぼしたことだろう。その答えはきっと自分なんかでは永遠にわからない。あんなひとが、自分をライバルと認め、戦うことを望んでいるだなんて信じられない。
あてもなく歩くうちに駅にたどり着いていた。駅前の掲示板には先ほど観た舞台のポスターが何枚も貼られている。何人もの亜弓が深紅のドレスに身を包み、緩やかに、しかし役柄を思わせる冷たい微笑を浮かべこちらを見つめる。薄汚れた売春婦の役だった、発表があったときには、マスコミはセンセーショナルに取り上げたものだ。あの姫川亜弓が売春婦役を!
男の腕の中で夢見るように愛を語る亜弓も、嫉妬から炎のように叫ぶ亜弓も、なにもかも初めて見るもので、マヤは目を見張らずにはいられなかった。こんな亜弓を知らない。こんなふうに、誰かを愛して狂おしく泣く亜弓など。ずきずきと胸が疼いて、マヤは心臓をおさえる。痛い、亜弓を見ているといつもこんなふうに胸が疼く。どうしてあのひとはこんなにもあたしの目を奪い、あたしの胸をかき乱すんだろう。ポスターの前に立ち尽くし、すべもなくただ微笑む亜弓を見つめる。
「……マヤさん」
唐突に、後ろから凛と声が響いた。どくりと心臓が跳ねる。聞き間違えるはずもない、この声。舞台の上で、去って行く男の背に向かって、愛しているのよ!と悲痛に叫んだ声。
自由にならない身体でゆっくりと振り返ると、やはり立っていたのは亜弓だった。
「亜弓さん…」
「どうしたの、こんなところで」
「あ、あの、あたし…」
戸惑って視線をはずすと、一体どれだけ立ち尽くしていたのか、辺りはすっかり夕闇に染まっていた。帰宅を急ぐ人々がふたりを横目で見遣りながら次々に駅に吸い込まれていく。亜弓は落ち着かない様子のマヤに向かって、にっこりと優しげに微笑んだ。
「さっき舞台が終わったところなのよ」
「あ、あたし、観ました!」
「え……」
「今日の舞台…。あの、なんていったらいいか、あたし、…」
言葉を探し言いよどむと、亜弓は眉を寄せ、視線を向けてきた。表情はしんと強張って、さきほどまで浮かべていた優しい微笑みが嘘のようだ。
「どうぞ、忌憚のないご意見をきかせてちょうだい」
響く声音も心なしかひんやりとしていて、マヤは再び戸惑って視線を落とす。磨きあげられたエナメルの靴と、磨り減った革靴が目に映って心苦しくなる。こんなあたしと一緒にいて、亜弓さん変に思われないかしら。
「…マヤさん?」
「えっ……」
「…感想が言えないほど、ひどかったのかしら」
「いえ、違うんです! すばらしかったです、亜弓さん、本当に綺麗で…!」
「綺麗? そんな役じゃなかったわ。どちらかといえば、醜い女よ」
「いいえ! あたし、亜弓さんに目を奪われました。ずっと亜弓さんばかり見てた…。あ、もちろん、お芝居自体も、おもしろくって引き込まれたけど」
「……わたしばかりを?」
訝しげに眉を寄せて、亜弓は尋ねてきた。きんと、金属のように感情を窺わせない声。
「はい…。亜弓さんは、いつも、…いつだって、光を放ってるみたいで、目を奪われずにはいられないんです。…今回の役、今までにないような、激しい情熱を持った女のひとで、ああいう役もあんなに完璧に演じられるなんて。やっぱり亜弓さんは、すごいんだって、あたし…」
「……ありがとう」
緩く、あたたかな響きで言われて、思わずマヤは笑顔で顔を上げるが、亜弓の顔を見た瞬間にその顔は強張った。目の前で微笑む亜弓は、しかしどこかが不自然だ。痛みをこらえるような、それを悟られまいとひた隠しにしているような。マヤは心配になっておそるおそる声をかける。
「…亜弓さん、どうかしたんですか」
「え…、どうして?」
「なんだかつらそう。どこか痛いんですか?」
「っ………」
気遣わしげに顔を覗き込んで問えば、亜弓は言葉を失ったように押し黙った。もとから白い肌は青ざめ、すでに翳ってきたわずかな日差しが頼りなく照らしている。ああ今あたしは、亜弓さんの真実を見ている。マヤは根拠もなくそう確信した。亜弓は、誰の前にいるときでも、完璧だった。完璧な女優だった。すべてを演じているとまでは思わないが、マヤの前にあるとき、亜弓は頑なに、美しく強かったのだ。だから目を奪われるのだと思っていた。けれど今。おそらくは亜弓がひた隠しにしてきた真実を目の前にしている。そのことがざわざわと胸を揺らした、それは歓喜ともいうべきものだった。どうしたんだろう、あたし、嬉しいのかもしれない。…なんて嫌なやつ、亜弓さんがつらそうだっていうのに!
「……いえ、大丈夫よ…」
「でも亜弓さん、顔が青いわ」
思わず手を伸ばして腕に触れ、ほのかに伝わる体温に、今更ながらにびくりとする。亜弓の体温。一体いつ以来だろうか、ふたりの王女の舞台のとき? けれどあそこにいたのは亜弓ではなくオリゲルドだった、それと意識して触れたわけではなかったのだ。
「……、っ」
青ざめた亜弓を見つめて、その腕に触れたまま、マヤは身動きできなくなった。これはなんだろう、目を奪われ言葉を奪われ、手を離すこともできない。目の前の存在に魂ごと持っていかれるような、この感情はいったい、なに?
「本当に、大丈夫。ごめんなさい、舞台で疲れちゃったのかもしれないわ。初日からこんなじゃ、だめね」
なんとか微笑んで亜弓は言う。腕に触れたままのマヤの手を遠慮がちにほどき、改めて微笑んだ。
「今日は電車で帰ろうかと思っていたけど、迎えに来てもらうことにするわ。…あなたも、よければ送っていきましょうか?」
いつもの調子で続ける亜弓に、マヤは同じように笑う、ほどかれた指先を持て余しながら。この喪失感は、いったい、なんなのだろう。
「いいえ、ありがとう。ちょっと寄る場所があるの」
「そう。…舞台、観に来てくれてありがとう。わたしもあなたの今度の舞台、楽しみにしているわ」
「ありがとう、あたし、亜弓さんに認めてもらえるように、頑張ります。…それじゃあ、亜弓さん、気をつけて」
「ええ、あなたも。じゃあ、また」
微笑んで別れを告げ、背を向ける。亜弓の姿が人ごみにまぎれ見えなくなってから、マヤはかすかな息をついた。指先が痺れるみたいだ、どうしちゃったんだろう、あたし。亜弓の肌に触れた指先を握りこみ、眉を寄せる。
亜弓の舞台を見た。舞台にそう近くもない席だったにも関わらず、亜弓の姿は目の前に迫ってくるようだった。舞台の上で、亜弓は光り輝くように美しかった。髪を振り乱し狂喜のごとく笑う姿すら凄絶なほど美しかった。物語を追いながら、けれどマヤの目はいつだって亜弓を追っていた。魂すべてを奪い去っていくような、そんな女だった。いやそれはきっと、役柄のせいではない。登場した瞬間にマヤの魂を舞台の上から華麗に奪っていったのは、たしかに亜弓自身だったのだ。
「…どうして、……」
呟きは自らの手の内に落ちて消える。どうしてあんなひとがいるの。亜弓に出会ってから何度こぼしたことだろう。その答えはきっと自分なんかでは永遠にわからない。あんなひとが、自分をライバルと認め、戦うことを望んでいるだなんて信じられない。
あてもなく歩くうちに駅にたどり着いていた。駅前の掲示板には先ほど観た舞台のポスターが何枚も貼られている。何人もの亜弓が深紅のドレスに身を包み、緩やかに、しかし役柄を思わせる冷たい微笑を浮かべこちらを見つめる。薄汚れた売春婦の役だった、発表があったときには、マスコミはセンセーショナルに取り上げたものだ。あの姫川亜弓が売春婦役を!
男の腕の中で夢見るように愛を語る亜弓も、嫉妬から炎のように叫ぶ亜弓も、なにもかも初めて見るもので、マヤは目を見張らずにはいられなかった。こんな亜弓を知らない。こんなふうに、誰かを愛して狂おしく泣く亜弓など。ずきずきと胸が疼いて、マヤは心臓をおさえる。痛い、亜弓を見ているといつもこんなふうに胸が疼く。どうしてあのひとはこんなにもあたしの目を奪い、あたしの胸をかき乱すんだろう。ポスターの前に立ち尽くし、すべもなくただ微笑む亜弓を見つめる。
「……マヤさん」
唐突に、後ろから凛と声が響いた。どくりと心臓が跳ねる。聞き間違えるはずもない、この声。舞台の上で、去って行く男の背に向かって、愛しているのよ!と悲痛に叫んだ声。
自由にならない身体でゆっくりと振り返ると、やはり立っていたのは亜弓だった。
「亜弓さん…」
「どうしたの、こんなところで」
「あ、あの、あたし…」
戸惑って視線をはずすと、一体どれだけ立ち尽くしていたのか、辺りはすっかり夕闇に染まっていた。帰宅を急ぐ人々がふたりを横目で見遣りながら次々に駅に吸い込まれていく。亜弓は落ち着かない様子のマヤに向かって、にっこりと優しげに微笑んだ。
「さっき舞台が終わったところなのよ」
「あ、あたし、観ました!」
「え……」
「今日の舞台…。あの、なんていったらいいか、あたし、…」
言葉を探し言いよどむと、亜弓は眉を寄せ、視線を向けてきた。表情はしんと強張って、さきほどまで浮かべていた優しい微笑みが嘘のようだ。
「どうぞ、忌憚のないご意見をきかせてちょうだい」
響く声音も心なしかひんやりとしていて、マヤは再び戸惑って視線を落とす。磨きあげられたエナメルの靴と、磨り減った革靴が目に映って心苦しくなる。こんなあたしと一緒にいて、亜弓さん変に思われないかしら。
「…マヤさん?」
「えっ……」
「…感想が言えないほど、ひどかったのかしら」
「いえ、違うんです! すばらしかったです、亜弓さん、本当に綺麗で…!」
「綺麗? そんな役じゃなかったわ。どちらかといえば、醜い女よ」
「いいえ! あたし、亜弓さんに目を奪われました。ずっと亜弓さんばかり見てた…。あ、もちろん、お芝居自体も、おもしろくって引き込まれたけど」
「……わたしばかりを?」
訝しげに眉を寄せて、亜弓は尋ねてきた。きんと、金属のように感情を窺わせない声。
「はい…。亜弓さんは、いつも、…いつだって、光を放ってるみたいで、目を奪われずにはいられないんです。…今回の役、今までにないような、激しい情熱を持った女のひとで、ああいう役もあんなに完璧に演じられるなんて。やっぱり亜弓さんは、すごいんだって、あたし…」
「……ありがとう」
緩く、あたたかな響きで言われて、思わずマヤは笑顔で顔を上げるが、亜弓の顔を見た瞬間にその顔は強張った。目の前で微笑む亜弓は、しかしどこかが不自然だ。痛みをこらえるような、それを悟られまいとひた隠しにしているような。マヤは心配になっておそるおそる声をかける。
「…亜弓さん、どうかしたんですか」
「え…、どうして?」
「なんだかつらそう。どこか痛いんですか?」
「っ………」
気遣わしげに顔を覗き込んで問えば、亜弓は言葉を失ったように押し黙った。もとから白い肌は青ざめ、すでに翳ってきたわずかな日差しが頼りなく照らしている。ああ今あたしは、亜弓さんの真実を見ている。マヤは根拠もなくそう確信した。亜弓は、誰の前にいるときでも、完璧だった。完璧な女優だった。すべてを演じているとまでは思わないが、マヤの前にあるとき、亜弓は頑なに、美しく強かったのだ。だから目を奪われるのだと思っていた。けれど今。おそらくは亜弓がひた隠しにしてきた真実を目の前にしている。そのことがざわざわと胸を揺らした、それは歓喜ともいうべきものだった。どうしたんだろう、あたし、嬉しいのかもしれない。…なんて嫌なやつ、亜弓さんがつらそうだっていうのに!
「……いえ、大丈夫よ…」
「でも亜弓さん、顔が青いわ」
思わず手を伸ばして腕に触れ、ほのかに伝わる体温に、今更ながらにびくりとする。亜弓の体温。一体いつ以来だろうか、ふたりの王女の舞台のとき? けれどあそこにいたのは亜弓ではなくオリゲルドだった、それと意識して触れたわけではなかったのだ。
「……、っ」
青ざめた亜弓を見つめて、その腕に触れたまま、マヤは身動きできなくなった。これはなんだろう、目を奪われ言葉を奪われ、手を離すこともできない。目の前の存在に魂ごと持っていかれるような、この感情はいったい、なに?
「本当に、大丈夫。ごめんなさい、舞台で疲れちゃったのかもしれないわ。初日からこんなじゃ、だめね」
なんとか微笑んで亜弓は言う。腕に触れたままのマヤの手を遠慮がちにほどき、改めて微笑んだ。
「今日は電車で帰ろうかと思っていたけど、迎えに来てもらうことにするわ。…あなたも、よければ送っていきましょうか?」
いつもの調子で続ける亜弓に、マヤは同じように笑う、ほどかれた指先を持て余しながら。この喪失感は、いったい、なんなのだろう。
「いいえ、ありがとう。ちょっと寄る場所があるの」
「そう。…舞台、観に来てくれてありがとう。わたしもあなたの今度の舞台、楽しみにしているわ」
「ありがとう、あたし、亜弓さんに認めてもらえるように、頑張ります。…それじゃあ、亜弓さん、気をつけて」
「ええ、あなたも。じゃあ、また」
微笑んで別れを告げ、背を向ける。亜弓の姿が人ごみにまぎれ見えなくなってから、マヤはかすかな息をついた。指先が痺れるみたいだ、どうしちゃったんだろう、あたし。亜弓の肌に触れた指先を握りこみ、眉を寄せる。