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愚者と妖精についての小話

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母はとうにいなくなった


 父が母に逃げられたのは新羅が本当に幼い頃で、母についての記憶が全く無いことがある種救いであったと、唐突に感じたのはいつだったか。母を知らずに育った彼に、彼女が母たる愛情を向けてくれた訳では決してなかった。出会ったばかりの彼女は自らの首にしか興味を持たなかったし、元より彼は母を知らないので母の愛情を求めるという本能すら芽生えなかった。しかしふざけた父がとぼけて言った、よりにもよって彼女の解剖に際してである、普通の人体とあまりにかけ離れた彼女の肉体に幼い少年は疑問を持った、これはなあに、それに父はこう答えたのである。
「お前の母親だよ」
 あの日の父の冗談が、嘘だと今でも、あの日にだって分かっていたのに、腹から染み出る血の赤さが鮮烈で、今でも目蓋に焼き付いている。
 うたた寝を雨音に起こされる、心地よい夢を見ていた気がするのだが、反響する声が目覚めると共に薄れていく、開けっ放しの窓から暴風雨、カーテンが湿って重くはためいていて、寝ぼけた体をソファから起こし、立ち上がる、目覚めぬ顔に雨飛沫、直接瞳に入る水滴に、眼鏡の不在を知った。遠くで雷も響いている、ガラス戸を閉めて、濡れた頬を袖で拭った、眼鏡はいつ外したのだろうか、眠るまでは医学書を読んでいて、そのまま寝てしまった筈だから、おそらく彼女が外してくれたのであろう、親切を想像して破顔しつつ、ソファの横の机を見る、メモを栞代わりに閉じた本の上、たたんで眼鏡が置いてあった。遠くに落ちた雷が近づいてくる、彼女はどこへ行ったのだろう、呼吸するように眼鏡をかけて、本を開いてメモを見る、仕事についての簡単な覚書、すぐに済むだろうとの予測をつける、彼女の字はいつも丁寧で、しかし丸みを帯びた字体に滲む女性の柔らかさ、恋人に関する全ての事柄に触れる度に彼の頬は緩む。彼女について、彼はおよそ心配らしい心配をしない。時計が示す午前二時という時刻であっても、妖精たる強靭さ、たとえ人間であろうと人外であろうと、彼女に及ぶ危険は存在しないだろう。畢竟、のんびりとコーヒーを沸かしつつ、白衣のポケットに手を突っ込んで、先ほどの夢がなんだったのか、うつらうつらと反芻する、雨音にかき消され、頭の中で薄れ行く声の残滓、言葉さえ聞き取れないそれに、確かに彼は懐かしさを感じていた、カップに黒い液体を注ぐ、湯気にまとう苦い香り、口を付けると眼鏡が曇って、激しくなる雨音、カフェインに覚醒される脳、遠雷、はっと、岸谷は顔をあげた。記憶の底で、夢の残滓、確証もなく断定が先んじる、『新羅』、それは顔も知らぬ母の声。
 父が母に逃げられたのは彼が首も座らない赤子の頃で、幼少時、彼は母という概念すら持ちえなかった、文字を読みだして、医学書をめくり、交尾に男女が必要という知識から、ようやっと自分に母という女性が存在するのだと知ったほどだ。もし恋人に母性を求めているのではないか、と聞かれれば母が何か分からない、新羅は躊躇なく言えるだろう。母に関する記憶が無いという認識すら新鮮で、何ゆえ唐突に夢に、しかも断定的にそれが母であるという確信を伴って、現れたのかと小首を傾げる。思えば恋人は、記憶が無いと知ったうえで記憶のありかを探しているが、人間というのはかくも愚かか、失くしたことすら忘れているのだ、彼女が出来ないと悩む諸々の事項を、人間は無能の自覚すらなくのうのうと暮らしている。
 夕立の中でなら泣ける気がして、ベランダ、土砂降りの中に踏み込んだ。白衣はすぐさま濡れて透けた。