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紺碧の空 番外編【完結】

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紺碧の空 4





  可能な限り音を立てないようにと配慮した面持ちで、菊がアルフレッドの部屋から滑り出てきた。
 扉を開けても光の漏れる様子の無い事から、室内は夜闇一色に包まれているのだと知れた。アルフレッドは眠ってしまったのだろうか。
 急に顔色が悪くなって、酷く具合が悪そうだったと聞いた。暗闇の中で心細く在ったであろう弟を、恐らくは菊が優しく慰めて、寝かしつけてくれたのだ。客人として招いた彼には申し訳なかったけれど、今日この家に菊が居てくれた事、弟を一人で泣かせずに済んだ事にホッと胸を撫で下ろした。
 廊下の先でジッと待機していたアーサーは、今にも駆け寄りたい気持ちを堪えて、弟の親友がこちらまで歩いてくるのを待った。
「カークランドさん……」
 視線の先に自分の姿を見止めた菊は一瞬驚いたように瞳を瞠ったが、すぐにいつもの穏やかなポーカーフェイスを取り戻し、下へ戻りましょう、と囁いた。
(アルに聞かれたら困る話……か)
 弟の部屋の目と鼻の先である廊下などで話していて、万が一にでも聞かれていたら洒落にならないような内容なのだろう。菊の言葉をそのように解釈したアーサーは、大人しく黒髪の青年に促される儘、先に階段を下りてリビングへと戻っていった。
「おかえり」
 母から話を聞いていたのか、長時間席を外していた二人に何処へ行っていたのだと苛立つ様子も無く、フランシスは柔らかな笑みで菊に手を伸ばした。躊躇う事無く差し出された手に指先を乗せた菊の動作は自然で、それ以上に肩に腕を回し、額に触れるだけのキスを落としたフランシスの動作もそうする事が当然だとばかりに滑らかだった。それは紛れも無く恋人達の間だけに許された神聖なる儀式のようで、目の当たりにしたアーサーは至極複雑な気分に陥った。
 二人が公私ともにパートナーとして深い絆で結ばれている事は知ってたし、口に出しては絶対に言いたくないけれど、悔しきかな一見軽い優男風だが意外に一度も浮気をしている現場を見た事の無いフランシスと、黒髪黒目の上品で控え目な菊は、見目の麗しさと言い、内側から薫り立つ聡明さと言い、非の打ち所の無い程の似合いのカップルだった。なのでそれを気まずく思う気持ちは無いけれど、公然の場で特別な者同士に送る濃厚なハグを交わす場面を目撃すると、暗い嫉妬にも似た恨めしさが沸き上がるのも事実だった。
 自分も公衆の面前でアルフレッドを自分のものだと他人に知らしめたい。金糸の絹に太陽の橙を混ぜ込んだような濃い金髪の前髪を掻き上げて、現れた傷一つ無い白い額にキスをする。頬と頬を合わせて相手にだけ聞えるようにただいまと囁き、くすぐったそうにおかえりと返って来た吐息を耳朶に感じる。そう言った些細な触れ合いすら禁じられている自分達の関係に辟易とした理不尽さを感じていた。尤も、それが叶わないのは自分の所為だと言う事実を棚に上げるしか術は無く、やり場の無い腹立たしさをぐつぐつと腹の底に持て余すことしか出来ないのだが。
「父君と母君には先に休んでもらったよ」
 何処までも沈んで行きそうなアーサーの葛藤をはぐらかすように、フランシスの軽い口調が飛んできた。
「アルは菊に任せておけばいいし、俺は二人を待ってるからって」
「ああ……。悪かったな」
 上の空の思考のまま中身の無い相槌と謝罪を零すと、フランシスは呆れたように芝居掛かった大仰さな動作で肩を竦めた。
「べつにお前の為じゃないけど。俺はいつだって可愛い子の味方」
 さらりと往年の知己の存在を全否定して見せて、代わりに彼の大事な恋人を全面支援する旨を掲げる。
「で、どうだったの。アルの奴」
「ええ……」
 フランシスが菊に向けた話題転換に、アーサーもハッと瞳に宿る光を強くした。紫と緑の視線が痛い程に集中する中、漆黒の瞳を持つ青年は頗る言い難そうに端整な鼻梁を曇らせる。
「とても消耗していました。お酒が入っている所為もあるかと思いますが」
 菊にしてみれば、あんな風に子供みたいに泣きじゃくるアルフレッドを見たのは、それこそ出会った時以来の出来事だった。感情表現の豊かな彼だが実はその表情は喜怒哀楽の「喜」と「楽」だけに限定されていて、怒りや哀しみと言った負の感情は滅多な事では他人に悟らせないアルフレッドだっただけに、周囲を憚らず大粒の涙を零して泣く姿を見ているのは辛く、こちらの胸までぎゅっと締め付けられているようだった。それだけ我を忘れて取り乱す程、アルフレッドの中でアーサーの存在は大きなものだと言う事なのだろうけれど。
「原因は何なんだよ」
「……それは」
 夫婦間の重大な秘密を自分の口から漏らしてしまっても良いものかと逡巡し、菊は口を篭らせる。しかしアーサーに正面から瞳を向けられ、構わないから言ってくれと真摯な懇願を向けられれば、重い口を開く以外の術を失ったも同然だった。
「あの……細君がご実家に戻られているとお聞きしましたが、どのようなご用件かご存知ですか」
「帰省の理由を、か?」
 アーサーからの問いかけにはい、と肯いて菊は不安そうに揺れる瞳を躊躇いがちに上向けた。
「さぁ……いつもの気紛れじゃねぇのか。詳しくは訊いてねぇけど」
「病院に行かれている、というお話も?」
「病院?」
 何処か身体の調子でも悪くしているのかと怪訝そうに首を傾げているアーサーの向かいで、勘の鋭いフランシスはハッと表情を閃かせた。
「それってまさか、おめでたってこと?」
「はぁ……?」
 フランシスの主張に当のアーサーは場違いなほどの素っ頓狂な疑問符を上げ、まさかそれは無いだろうと詰まらない冗談を笑う余裕を捻り出そうとした所で、ジッと真剣な面持ちを崩さずにいる菊の視線に気付いて、ぐっと圧倒されたように怯んだ。
「おい……。本当、なのかよ。それ」
「はい」
 貴方のお義母さまからお訊きになったそうです、と折り合いの悪そうに瞼を伏せて、菊は胸の前でさり気無く掌を組み合わせた。その神にも祈るような仕草に冗談でも軽口でも無い重みを感じ取ったアーサーは、顔面からサッと血の気が引いていく音を聞いたような気がした。
「それはねぇよ。何かの間違いだ」
「え?」
「間違いでなきゃ、全部あいつの狂言……でっち上げの嘘八百だ。早くアルに本当の事教えてやらねぇと」
 言い様に二階へと駆け上がろうとしたアーサーの腕を慌てて引き止めて、菊はいけません、と声を荒げた。
「やっと落ち着かれて眠った所なのです、今はそっとしておいてあげて下さい」
「ふざけんな! そんな冗談にもならねぇ嘘吹き込まされてじっとしてられるかよ……っ」
「やめて……これ以上混乱させないでっ!」
 腕を振り払おうとするアーサーと引き止めようとする菊で揉み合いになり、体格差で負ける菊は突き飛ばされた拍子によろけてテーブルに腰を打ち付けたが、それでも掴んだ腕を放す事なく縋るような切実さでアーサーの前進を阻んだ。
 しかし菊の必死の阻止も虚しく、一つの目的しか見えなくなっているアーサーは体重の軽い菊を引き摺る勢いで強行突破の手段に出た。二人の押し問答を黙って傍観していたフランシスだったが、流石に見ていられなくなり腕を伸ばし腐れ縁の男の胸倉を鷲掴む。