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紺碧の空 番外編【完結】

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「落ち着けよ。今お前が出てっても余計に話が混乱するでしょーが」
 普段の磊落の口調を封印した低い声音は、幾多の修羅場を潜り抜けた者だけに発音を許された独特の凄みがあった。瞬時に冷水を浴びせかけられたような心地に陥って正気を取り戻したアーサーは、何とか反論しようにも頭に血の上りきった状態では目の前の賢い友人二人を納得させるだけの話術を繰り出せないと早々に不利を悟り、薄い唇をぎりりと噛み締める。
「……クソッ。誓って心当たりなんかねぇのに」
「本当に無いって100パー言い切れんの」
「たりめぇだよ。もし孕んでたとしても、それは俺のガキじゃねぇ」
「ふーん……」
 形の良い顎に指先を当てて、フランシスは何やら思案するように身の入っていない肯きを返した。
「まぁ、それはそれでオニーサンはお前を軽蔑するけどね」
 友人からの冷ややかな蔑視にアーサーは今度こそ返す言葉を無くして閉口した。彼の言い分は尤もで、妻に狂言を吐かせてまで周囲の気を引こうとする道化を演じさせてしまった罪は紛れも無く自分自身に原因があった。
 表面上は恙無く仲の良い夫婦を装いながら、その実、彼女に向ける愛情は胸の裡の何処を探しても決して見付かる事は無かった。自分にはもう他所に全存在を懸けて愛すべき対象が……アルフレッドが居るから、弟以外の人間に向ける余裕なんて皆無にも等しいのだ。華奢な指を取って手の甲に唇を寄せながら、本当に口付けたいのはこの指では無いと、心の奥では嫌悪してしまっている自分がいた。
 自分を好いてくれる彼女の好意に付け込み、甘えて、今まで本気で向かい合おうともしてこなかった。仕事の忙しさを理由に家にも稀にしか寄らず、最近ではめっきり郊外のアパートで寝起きするようになっていたので、夫婦とは思えないような擦れ違いの生活が続いていた。
 彼女が欲しかったのは、本当は夫である自分の心よりも、周囲の家族達から羨まれるような状況だったのかも知れない。だから自分には直ぐにばれるような嘘を吐いて、しかしそれが本物であるかのように周囲には振舞って、おめでとうと祝福される幸せな妻の気持ちを擬似的でも良いから味わいたかったのかも知れなかった。
 お嬢様育ちで我儘な女性だったが、高い教養と家柄の重さに負けない気の強さを持っており、意外と一途な面もあった。プライドの高い彼女を追い詰めてしまったのは、今の今まで妻と恋人との間で優柔不断な態度しか取ってこなかった自分に対する最も罪深い罰なのかも知れない。
「……わかった」
 今すぐにでもアルフレッドと話したい気持ちを何とか押し殺し、アーサーは大人しく夜を越す事を旧友の二人に誓った。
 フランシスと菊をそれぞれの客室に案内し、せっかく来て貰ったのにこんな事になって悪かったと素直に謝れば、フランシスにはお前が素直だと調子が狂うと変な顔をされたが、菊にはお二人の為ならば何てことありませんと穏やかな微笑を貰ったから、毛羽立っていた精神が幾らか落ち着いたような気がして、正直有難かった。



 結局、一睡も出来ないまま夜を明かし、窓の外が白んできた頃にただ横になっていただけのベッドからのろのろと起き上がった。
 皆が起きて来るまで紅茶でも飲んで待っているかと思ったが、既に起床して台所に立っていた母の隣で、均整の取れた長身のシルエットが忙しなく動いている事にアーサーは目を瞠った。
「……アル?」
「あ、お早うアーサー。早起きだね」
 シャワーを浴びたばかりらしく、弟は髪の先からポツポツと水滴をしたたらせてシャツの襟元をしとどに濡らしていた。しかし昨夜に菊が言っていた涙の跡はその溌剌とした頬の何処にも窺えず、母親や使用人達を手伝って客人二人分を含むいつもより少しだけ豪華な朝食の準備を楽しそうに進めていた。
 その無邪気な笑顔はダイニングに下りてきた菊やフランシスの度肝をも抜いたらしく、特に菊は号泣する弟の姿を目の当たりにし、慰めて寝かしつけという経緯を持つので余計に目を点させていたけれど、アルフレッドは客人たちが下りてきた事に気がつくと微かに頬を染めて照れたような顔をしてこっそり親友の耳に唇を寄せ、ごめんね、もうだいじょうぶだぞ、と内緒話にもなっていない囁きを放っていた。
 朝食の席に着いたアルフレッドは、可笑しい位に明るく振舞い、よく喋って笑っていた。
 昨日はごめんよ、酔っ払っちゃったみたいなんだ、と途中退席してしまった非礼を全員に詫びて、でも誰かさんみたいに酷い二日酔いも無いみたいだからもう大丈夫だぞ、と兄をネタにして満点のお日様笑顔をニッコリと輝かせる。
 家で食べるスクランブルエッグの味が懐かしいと笑い、パンのジャムを指で掬い舐めては行儀が悪いと叱られて笑い、紅茶に角砂糖を三つも落としては家だと甘いもの食べ放題ですぐ太りそうだと笑う。
 まるで何事も無かったかのように笑っている。
 自分にも気兼ねなく話し掛けてくる。
 アルフレッドの中では昨夜の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったのではないかと危惧するほどに。
 しかしそれは嵐の前の静けさに似ていると思った。
 一見すると絵に描いたように平和だった朝食が終わり、午後の便で隣国へと帰るまでロンドン市内で買い物をすると言うフランシスと菊のために、アーサーは車を出して駅まで二人を送ってやった。親友の見送りに当然のようにアルフレッドも付いて来て、朝の通勤通学ラッシュに見舞われている喧騒の海原に四人で決死のダイブを敢行する。
「じゃあね菊、今度は俺がそっちに行くぞ!」
「ええ。楽しみに待っています」
「プレゼントいっぱいサンキュー!」
 両手を挙げて力いっぱい腕を振り、盛大な見送りを背負って見慣れた背中が遠く離れて行くのを残された二人は最後まで眺めきった。旧友達の後姿はすぐに群集にまみれてしまったので、血の繋がらない兄弟は狭いホームに点々と取り残されている。
 自分達もそれぞれの職場へと向かう前に、少しでも良いからアルフレッドと二人だけで話がしたいと思っていた。
 しかしアーサーの思惑を裏切り、アルフレッドは短い言葉で会話を強制的に打ち切ってしまった。
 それは問答無用に容赦の無い言葉で、けたたましい警笛にも負けないきっぱりとした口調だった。何処か清々しささえ感じられる笑顔で、表情に涙の気配は微塵も窺えない。
「ねぇ。アーサー」
 ――別れよう。俺達。
 とても静かな声だった。
 後方へと振り返り様にそう言いながら、仮面を貼り付けたように綺麗に微笑う年下の恋人に、アーサーは何も言えないままその背中が朝の混雑する駅の雑踏へと消えて行くのを見守るしか出来なかった。
 弟は一言だけ、たったそれだけを告げて、名残惜しさも躊躇う様子も見せずにすっと身を翻し、人込みの中に身を隠すように姿を紛れ込ませてしまった。
 腕を伸ばす事も、足を一歩前に出す事も出来なかった。ただ、ただ、とても大きくて大切な存在を失ったのだと、その事実だけがズシリと鉛のように無力な全身へと圧し掛かってきただけだった。