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比翼連理 〜 緋天滄溟 〜

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9. 剥奪



 長い睫毛が小さく震え、微睡みの彼方から覚醒めようとするハーデスの口元が何かを呟くように動きを見せた。しかし、聴き取ることは叶わず、蒼褪めた唇に耳を寄せたアーレスだが静かな息だけが掠めた。
 やがて、ゆっくりと開かれた瞳が亡羊と空を彷徨う。
「ご気分はいかがか?ハーデス」
 一度、瞳を伏せたハーデスは纏わり憑く倦怠感を払うように頭を軽く振ると胡散臭げにアーレスを見つめた。虚無の彩りを見せる美しい瞳にアーレスは胸を熱くする。
「ひどく、身体が重い……一体、余はどんな下手を打ったのか?アーレス」
 口をきくのもやっとといったように深い溜息と共に吐き出された疑問にアーレスは毀れるような笑みを浮かべながら答えた。
「―――何も。あなたは何も……そう、何もしていないのです。裁かれるべきはあの女神。そして……人間たち」
 色を失くしたハーデスの頬に指を滑らせながら微笑む。
「―――聖戦か。戯れが過ぎたのか、余は。冥界はどのような状況か……双子神たちは?」
「再構築され、再び機能している。案ずることはないでしょう。今しばし……御身が復活するまで安息をとられるがいい」
 頬にかかる絹の髪を指先で払いかけたその時、ハーデスがそのしなやかな手首を掴み取った。一瞬、表情を硬くしたアーレスに鋭い視線が向けられる。
「アーレス、何の小細工をした?」
「さて、何のことやら……ぐっ!」
 掴んだ腕を後ろ手に捻りあげ、苦痛に歪んだアーレスの顎を掴むと、ハーデスはその耳元に唇を寄せ、冷え冷えとした口調で詰問する。
「余の記憶に干渉したのはわかっておる。どのような情報を搾取しようとしたのか、素直に答えよ。その自慢の美しい顎の骨を砕かれる前に」
 容赦ない力を指先に込める冥王。アーレスは激痛に秀麗な顔を僅かに歪めた。
「―――あなたが懸念しているような……冥界の存亡に関わるようなことではない。たわいもない、微細なことにしか過ぎない……あなたにとって寧ろ不要でしかない記憶を覗き見ただけ。もしも、歪んだとするならば、それはあなた自身の潜在的にあった願望によるもの。嘘か真か……お疑いなら外で待機しているあなたの忠臣にお尋ねになればいい」
「……」
 掴んでいた手の力を緩め、すっとアーレスから離れると冷め切った瞳でアーレスを見ながら、すぐ近くに眠りの神の存在を感じ取った。
「ヒュプノスを招き入れるが、よいな?」
 有無を言わせぬ厳しさに首を竦めながら、アーレスは身なりを整えるかのように素顔を隠した。部屋の外で苛立ち、憤慨しながら足止めをされている眠りの神を中へと招き入れるために鉄壁を誇る結界を解く。すると、荒々しく扉を開き中へと飛び込んできた眠りの神。アーレスは皮肉っぽく口元を吊り上げたが、仮面によって隠されていた。
「ハーデスさまっ!」
 ハーデスの元へと駆け寄り、烈火の如く怒りを露にするヒュプノスの眼差しは禍々しい面を貼り付けたアーレスを射抜くように差し向けていた。
「―――ふざけた真似を!いつか、貴様とは一度決着をつけねばなるまいと思っていたが!ハーデスさま……ああ!お怪我はございませんか!?」
 いたわるような眼差しを受け、ハーデスは苦笑した。
「怪我……?そのような傷は負うておらぬ」
 するすると指を滑らせながらハーデスはほんの少し、違和感を覚えた腹部に留め置いたのちに瞳を細めたが、すぐにいつものごとく、読み解くことのできぬ表情へと戻った。そして傍らに立つアーレスが口を挟んだ。
「ハーデスはあまりに戯れが過ぎて、危うく冥界の秩序を乱しかけた……そうであったな、ヒュプノスよ。戦女神に付け入る隙を与えたことは確かに恥じ入るべきことだが、おまえたちの尽力をもって崩壊という最低な事態だけは防いだ……それが事実、であろう」
 意味深く告げられたアーレスの言葉を訝しむようにヒュプノスが睨みつける。
「よく……考えて答えよ、ヒュプノス」
 せせら笑うアーレスを食い入るように見つめるが、その表情は残酷な仮面に隠され、真意を測りかねた。ヒュプノスはスッとハーデスに瞳を滑らせ、白い貌をしばらく見つめた。仄かに揺らぐ心を見せるかのように、ハーデスが不快そうに眉根を寄せる。
「―――まるで、夢から醒めたかのように気だるい。聖戦……なぜ余はアテナを宿敵とし、執拗なまでに剣を交えたのか」
 なぜ……そう繰り返すハーデスの声に心を震わしながら、ヒュプノスは静かに答えた。