比翼連理 〜 緋天滄溟 〜
「ハーデスさま、あなたは……地上を欲しておいででした―――」
―――狂うまでに渇望し続けたのです、あなたは。
そう云い掛けた言葉を飲み込み、薄氷を歩くかのように冥王の身に起きた変化を見逃すまいと慎重に言葉を紡いだのだった。
「地上を、か……ふむ。何故であろうな……斯様なモノを手に入れても仕方あるまいに」
瞼を重たげに閉じて、深い溜息をついた冥王は落ち着かないといった様子で髪を弄ったり、指先を爪弾いたりしてみせた。手持ち無沙汰といった感じである。
「ただ……何かが足りぬ。この手の中にあるべきものが消えた。どこへ行ったのであろうな?」
沈黙したままのヒュプノスは片時も肌身離さず、それはまるで寄り添うように傍にあったはずの愛剣がその傍にないことに気付く。ヒュプノスを過去においても未来においても繋ぐ存在。
「ハーデスさま、御剣はいかがなされたのです」
「剣……?ああ、そうか。それで、余は……ヒュプノスよ、冥界に戻るがよい。海皇に借りを返さねば……のう?」
うっすらと口端を歪めた冥王の内にひどく残酷で獰猛な闇が発生したのをヒュプノスは感じ取った。その気配はヒュプノスにすればひどく優しく、懐かしいともいえる風。
―――まるで出会った頃のように。
ただ一つの魂に縛られる前の……穢れを知らぬ闇の心。
「ハーデスさま、あなたは―――」
言いかけた言葉は紡ぐ事無く、そのまま沈黙の泉へと滴垂れた。その後、乞われるままに冥王に眠りを捧げたのち、別室へとアーレスに誘われた。
「ハーデスの身にどのようなことが起こっているかは既にわかっていると思うが」
その問いには答えず、金色に光る瞳でじろりと睨めつけるヒュプノスを高らかにアーレスが哂った。
「―――そう!それで良い。おまえは何も言わず、口を閉じておけば、おまえが焦がれて止まぬハーデスはずっとそのまま存在する」
「―――何が目的だ」
「目的?フッ……おまえもあの人間と同じことをいうのだな」
「あの人間……シャカのことか」
「そうだ。あの人間、殺すことなど雑作もないこと」
「殺した、と」
「さて、それは?ククッ……そんな顔をするな。ハーデスの記憶にあの者の存在はない。何の問題もないではないか」
「女神との協定がある」
「そんな瑣末な事情などでおまえの冥王が揺らぐことなどあるまい?寧ろ願ったり叶ったりではないか。腐敗した地上など、おまえたち……もしくは海皇たちが浄化すればいい」
「それだけが目的で仕掛けたと?」
「いいや。だが、これ以上は話すつもりはない。おまえはおまえらしく、ハーデスは冥界の王らしくあれば、それでよいではないか」
「答えになっておらぬ!」
「―――ヒュプノスよ。冥王の望みを叶えるべく、臣下たるおまえは冥界に出戻り、海界と一戦を交えるがいい。まぁ、既に放った矢によって、彼の愛剣を海皇から取り戻すべく動き出しているだろう。ハーデスの意思として……な。平和など退屈極まりない。喜び勇んでひと悶着起こしているだろうて。主なき冥界は混沌に包まれているか……それとも?どちらにせよ、早く戻ったほうがよいであろうな。なに安ずることはない、不逞の輩からは俺が冥王を守るさ」
涼しげに言い放つアーレスに更なる不信感を抱きながらも、冥界の動向も気になったヒュプノスは渋々その場を切り上げることにした。
「これだけは―――はっきり言っておく。たとえ、どんなに我が心が砕かれたとしても、ハーデスさまが負うてきたすべての過去、現在、未来までもがハーデスさまのもの。決して私は奪い取らぬ。おまえのように、な」
「フン。それこそ、たわけごとでしかないわ」
すっと掻き消えていくヒュプノスの残像に向かって忌々しそうにアーレスは呟いた。
作品名:比翼連理 〜 緋天滄溟 〜 作家名:千珠