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比翼連理 〜 緋天滄溟 〜

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18. 緋天



 ――――凶暴な愛。

 そう告げたアーレスの執着は己に向けられたものなのか、それとも己が手にする権力なのか、ハーデスはわかりかねていた。
 ずっと、長い間アーレスは囁き続けていたのかもしれない。だが、己の耳には通り過ぎていく風のような囁きでしかなかった。我が胸に届くことはなかった。
 狂おしいほどの渇望に身を委ねるアーレスの姿にじくじくとした胸の痛みを覚える。


  知っている……この痛みを。
  狂うほど、焦がれて。
  狂うほど、求めて。
  失った……その痛みを。


「おまえが欲するは余の力か?余の心か?」
「あなたのすべてだ―――!」
 ゼウスの寵児なれば大方、望むものはすべて手に入れることができたであろう。唯一手に入れることができなかったのは、美しき争いの神が望むのは……己のすべて。
 アーレスを覆うのは醜悪な仮面だけではなかった。その心もまた偽りの仮面で覆っていたのだろう。ようやく外された仮面。剥き出しの心の叫び。
「―――その力をもってしても……叶わぬものもある。たとえ、余を滅ぼしたとしても、たとえ、アーレス、おまえが滅んだとしても。連綿と続く」
「ならば、どうしろと!?この身も心も引き裂かんばかりの想いを抱き続けていけと、貴方はおっしゃるのか!?」
「いつかは……消える。いや、変化していくのだろう。どれほどの時を費やし、どれほどの悲しみを負うかはわからぬが、それもいつかは思い出となる」
「すべてを手にする貴方にはわからぬのだ!だから、そのような残酷なことが言えるのでしょう!?」
 血を吐くように呪うように吐露するアーレスにハーデスは哀しく微笑んだ。
「余がおまえの苦しみをわからぬと思うてか?フッ……すべてを手に入れたと、おまえはそう思うのか」
「……」
「花は散らしてこそ、とおまえは言ったが。その花にも命は宿っているのだと、その短き命の輝きは美しいのだということを余に伝えた者がいた」
「ハーデス?」
 押し黙ってしまったハーデスにアーレスは荒ぶる心をほんの少し納めて、近づいた。そして、呆然と立ち尽くした。
「―――泣いていらっしゃるのか……なぜ?」
「なぜ、と問うか?余はおまえが思うほどの強き心をなくしたのかもしれぬ。執着を絶つことも、己を滅ぼすこともできず……いつかめぐり逢い、確かな絆を結ぶ日が訪れることを信じた……そして、今は恐れている。記憶を捻じ曲げるほどに。いつしか、この腕から消え行く命なのだという事実を恐れて。余は……その事実から逃れたかった」
 ハーデスの瞳に満ちる悲哀の輝きに心を奪われながら、アーレスは自嘲気味に哂った。
「―――アイデネウス……盲目なる者よ。貴方のその瞳に宿る悲哀はその者が与えたのか……何たる皮肉。ヒュプノス……あの男の言った意味はこういうことだったのか。なるほど、一理ある。だが、私は―――やはり」
 すいとハーデスの白き頬に指を伸ばしたアーレスはどこか満足そうな表情を浮かべていた。
「ハーデスよ、貴方の大切な宝を私は壊した。貴方の大切な剣……冥界の掟によって。粉々に打ち砕いてしまったのです」
「―――!?」
「残るは……そう、父の元にある意思なき花。ただ、美しく狂い咲き、散っていく花のみ……」
 ざわりと満ちていく闇の気配に大きくアーレスは恍惚とした表情で瞳を瞠った。
 その紅き瞳の中に映った情景は折しもアーレス自身が希ったもの―――緋天に舞う漆黒だった。