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猛獣の飼い方

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1.衝動的殺意







(うわっ…)

一番見たくない顔を見てしまった。
踵を返しかけた臨也だが、自分の現状を思い出しピタリと足を止めた。

逃げる必要があるとは思えない。
常ならばともかく、今は――。

それならば、と開き直って目前の男に視線を投げる。恐らく喧嘩を売られたのだろうが、今ではどちらが悪いのか分からないまでに圧倒的な強さを見せる、一人の男。

痛んだ金髪に、怒りに染まった瞳を隠すサングラス。大切にしているらしい一張羅と、引きちぎった標識が揃えばもう間違えようがない。

臨也が嫌いな、唯一の人間。
一対多勢でも圧倒的な強さなのがまた気に食わない。

(うっかり怪我でもしないかな。そしたら楽しいのに…)

結局願いが叶う事はなかったのだけれど、それでも臨也はまじまじと男を見つめ続けた。いつもならば、すぐに視線に気付く男が今日ばかりは気付かない。それが面白くて、同じくらい、面白くない。

「…シズちゃんのばーか」

ちょっとしたチャレンジ精神で呟いた声は、案の定「ニャア」という音にしかならないのだけれども。







***







臨也が己の身の異変に気付いたのは、朝の事だった。ベッドの上で、毛むくじゃらの手を見て呆然とし、鏡の前では眩暈がした。

ありえない。
こればっかりはありえない。

そう念じながら目を閉じて、100数えてからゆっくりと瞼を開いても、そこには世界の終わりを宣告されたような顔の猫が居るだけだった。真っ黒な毛並みと、金色を帯びた瞳、まっすぐと伸びた尻尾に、柔らかい肉球。どこからどう見ても、猫だ。

「にゃぁ…?」

嘘だろ?と呟いた声ですらこれだ。
悪い事も卑怯な事も沢山してきた自覚はあるが、これが罰だと言うならば、あまりにも酷だ。この姿では、情報操作も暗躍も何も出来ない。

思わず頭を抱えるが、鏡には猫が愛らしく丸まっているようにしか映っていない。
その事実に気付いた時、臨也は一つ決意した。きっとこれは一時的な何かだ。寝たら治る。元に戻っている。

つまり彼は、一番手軽な現実逃避を計ったのだった。









そして昼過ぎ、予想を裏切られた臨也は池袋へ向かう事にした。
新宿から池袋までは山手線を利用。改札をすり抜け乗車した後は、何食わぬ顔でシートに座る。その姿は大変周囲の興味を引いたが、臨也はそんな視線を気にもしなかった。
仕方のない事なのだ。猫の姿ではタクシーは止まってくれないし、ましてや歩くなんて冗談ではない。疲れる。

「ママー!猫ちゃんがいる!」

子どもが近寄ってくる気配を感じ、網棚の上まで飛び乗った時だけは猫の身体も悪くないな、と少しばかり思いもした。

(とりあえず、新羅の所…だな。言葉が通じないのが問題だけど)

けれど、このままでいても何かが解決するとは思えなかった。セルティに倣ってキーボードを叩くという考えも浮かんだが、このモコモコとした手でそれが可能なのかは不安が残る。けれど、なんとかなるだろう。
出来る限り前向きに考えるようにしながら、臨也は網棚に捨て置かれた分厚い漫画雑誌の上で一つ、欠伸をした。

この身体、身軽なのは悪くないが、昼間は異様に眠くなる。












***





正直、この時の臨也は疲れ切っていた。不慣れな猫の身体。普段ならば10分かからない距離でも、人が邪魔でなかなか進めない。

いっそ無関心を決め込んでほしいものだが、中には指を擦りながら気を引こうとする者や、抱き上げようとする図々しい者まで現れたとなれば、流石の臨也も精神を擦り減らすしかなかった。

(大体、餌も持ってないのに指だけで釣れると思うのがおかしいよね)

至極もっともな事を思いながら、臨也は騒がしくなってきた方へ視線を運ぶ。
軽々と人が空へ舞うのを見た時、彼の表情は猫ながらにして人と変わらぬ程引き攣った。

(うわっ…)

目前には、臨也が池袋で一番見たくない顔。踵を返しかけるが、現状を思い出しピタリと足を止めた。

今、自分は猫だ。ただの猫。
逃げる必要があるとは思えない。

(うっかり怪我でもしないかな。そしたら楽しいのに…)

まじまじと観察しながら、ほんの少し。少しだけ。
どんな時も自分の視線に気付く男が、こちらを見ないかと考えてしまった。

結局男は喧嘩が終わるまで、ちらりともこちらを見なかったのだけれども。

(…シズちゃんのばーか)

ニャア、と響く声が間抜けだ。
それでも臨也は同じ言葉を繰り返す。

(ばーか、ばーか。シズちゃんなんか死ねばいいんだ。ばーか)

ニャア、ニャアニャア。
意味を成さない鳴き声に、喧嘩を遠巻きに見ていたギャラリーが気付き始める。

近寄ってくる精神を擦り減らす存在から逃げようと、今度こそ踵を返した臨也を一つの声が止めた。



「待てよ、ノミ蟲」



振り向いた先には、凶悪に笑う顔。
大嫌いな顔を前に、臨也はもう一度ニャアと鳴いた。
















衝動的殺意
(嬉しいとか、思った自分を今殺したい)
作品名:猛獣の飼い方 作家名:サキ