あなたと会える、八月に。
◆13
一瞬老人は、虚を衝かれたように呆然としてジュリアスを凝視する。
「……どうした? 何か私は、可笑しなことを申したか?」
老人は笑う。笑いつつ首を横に振る。
けれど。
ぎょっとしてジュリアスは、パンツのポケットからハンカチを取り出すと、彼にそっと渡した。「お借りします」と言って彼は、こちらへ向かってくるロザリアに見つからぬよう、いかにも汗を拭うかのようにしながらそれで軽く目を押さえた。
「この年寄りも」ハンカチを握ったまま老人は言う。「相当、親馬鹿だと自覚はしておりましたが……」
「何だ? 私もそうだ、とでも言いたいのか?」
「いかにも」
朗らかな表情のまま彼は頷く。
「それが……泣くほどのことか?」
「ははぁ、すっかり涙腺が弱くなってしまいまして……申し訳ございません」
「楽しそうね、お父様」戻ってきてロザリアが父親の、涙を拭った後の笑顔を見て言った。「どうなさったの?」
「ああ」老人は、ちらりとジュリアスを見ながら言う。「二人しておまえの自慢を、ね」
「自慢?」
「だが、ジュリアス様には負けた」
「え?」
そうロザリアが問い返してジュリアスを見たとたんジュリアスは、持っていたタオルをぱさり、とロザリアの頭から被せた。
「ジュリアス!」
ロザリアが怒鳴る。とうとう老人は声を出して笑い、ジュリアスは知らぬ顔をしている。
「もう、ジュリアスったら!」
ぶつぶつと文句を言いながらロザリアが、テントへ戻っていく。何か羽織ってこようとしているのだろう。それを見送ると老人は、まだ少しだけ潤んだ目を転じてジュリアスを見た。
「正直に言ったまでのこと」老人を見ないまま憮然としてジュリアスは言う。「それだけだ」
「申し訳ございません。少々嬉しくて、はしゃいでしまいましたな」そう言いながら老人はしかし、まるで悪びれた様子もなく微笑んでいる。「けれど、これでますますあなたの許へお届けする甲斐があるというもの」
「……何を」
「『美しい』花の咲く、庭への鍵を」
「え?」
「そろそろ部屋へ帰りましょう、お父様」
腰にパレオを巻き、つばの広い帽子を被ってロザリアがテントから出てきた。そしてジュリアスを軽く睨むとその胸を、指先でとん、と突いた。
「ジュリアスは練習ね」
「今日のピアノの練習は終わったぞ」
「水泳! 水着、下に着てるでしょう?」
まるで勝ち誇ったかのように言って、ロザリアが笑う。
「な……!」
何故それを知っているのか、と問うより先にロザリアは、父親の車椅子を押し始めた。
「それではジュリアス様、明日また、チェスのお相手願います」
「ではね、ジュリアス。しっかり練習するのよ」
ジュリアスはため息をつきながら二人に向かい、片手を上げる。そして砂浜から舗装された海岸線の道へ移動するための装置に乗り込み、そこから出てゆっくりとホテルへ向かう様子を見送る。
ときどきロザリアが、父親の話を聞こうと腰を屈めては笑っている。
なんて楽しそうに笑うのだろう。
だがそのとき、不意に車椅子が止まった。老人が何かロザリアに言っているようだ。そしてロザリアの躰が起き上がる。
こちらを見て−−いや、見つめている。
心なしかロザリアの頬が紅潮しているような気もする。
どうしたのだ? 横で父親が笑っているから、悪い内容ではなさそうだが……。
そこで、はたと思い至る。
まさか……先程のことをロザリアに申したのでは?
少々ばつが悪くなったジュリアスがテントへ戻ろうとしたとき、ロザリアが車椅子から手を離した。そして片手で帽子を取り、もう片手でスカートならぬパレオの布をつまむと、ジュリアスに向かって優雅に腰を折ってみせる。
ジュリアスが呆気に取られているとロザリアは、その様を見ながら肩をすくめて笑っている。同じく老人も躰を揺らして笑っているようだ。
全く……二人して私のことを笑い者にしているな?
そこで、腰に両方の手を当て、砂浜で仁王立ちになるとジュリアスは、むっとした表情を二人にしてみせた。とたんに二人とも、より大きく躰を揺らして笑いながら去っていく。
そうしてホテルに入ってしまうまで、ジュリアスは二人を見送った。
なんて楽しそうに笑うのだろう。
そして、なんて幸せそうに笑うのだろう−−二人とも。
嬉しくなる。
そして……ほんの少し、寂しくなる。
入り込めそうで、入り込めない微妙な位置の、何とも言えぬ居心地の良さと、極めて微かな疎外感の両方を味わっている。
おそらく−−そなたたちには、わからないだろう。
どれほど私が、そなたたちと会えたことを嬉しく思っているか。
どれほど私が、そなたたちのことを大切に思っているか。
それはまるで、本物の『家族』のように−−
たとえそれが、八月だけのものであったとしても。
< 第6章 19歳 - 了 - >
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月