瀬戸内小話3
渇望
※元親が精神的に病みぎみです。
気配を感じたのか、風の流れるほうへと白い指がついと伸ばされる。
人は五感のどれかを失えば、それを補うようにと過敏になるものがある。
元々、周囲に敏感な男は、些細な音ひとつで気配を察するようになった。
「……戻ったぜ」
伸ばされた手首を掴むと、己の頬に押し当てる。もう一方の手が、導かれたように顔をなぞる。
刀を握らなくなった掌は、ほんの少しずつだが柔らかくなった。
戻る度、人の顔をイヤというほどなぞる指。好きにさせながら、細腰を抱く。
「俺が留守の間、なんか変わったことはあったか? 不自由はなかったか?」
見える目と見えぬ目の、ふたつの眼を指が探る。なにが楽しくて人の顔を弄るのか。以前聞いたが、答えなど返ってくるはずもない。
「暫くは俺も此処に居るが、あんたはどうする? 浜辺でも歩くか?」
彼の世話は、何人もの小姓や端女に任せてある。決して不自由がないように、そしてたった一つ以外は自由にさせるように。
だから、彼が望めば外には自由に出歩ける。だが、元親が誘わない限り、彼は自ら外にでようとしない。
さらりと伸びた髪が揺れる。それを見て、よし、と立ち上がると、すっかり肉の落ちた身体を抱き上げる。
片手を握り、杖を持つ人の歩調に合わせて歩き出す。
「段差があるぞ、気をつけな」
ほとんど歩かないと聞いているが、彼の足取りは迷いがない。だから、本当はこの濁った瞳には鬼の顔も何もかも、映っているのではないかと錯覚する。
そんなはずはないのは、承知しているのだが。
館を出れば、すぐに砂浜が広がる。
最期の住処は潮の匂いが届く場所がよいと、手を握る男は生きることにおいては唯一望んだ。
その言葉を発して以来、彼の唇から声は失われた。
沢山のものを彼から奪った。
家に家族はもちろんのこと、視力を奪い、舌を切った。そこまでして、この屋敷で好きに生きろというのは元親の我侭に過ぎない。
あるとき男は木枝で喉を衝いた。それしか、命を確実に絶つ手段は残っていなかった。
なのに死ねなかったのは、男とって不運なことだったに違いない。
「……なぁ、元就。俺はアンタに何を望んでるんだろうな」
砂を踏みながら、問う。だが、繋いだ掌からは、何の感情も流れてこない。
濁った瞳はただ海を見つめ、迷う鬼など眼中にない。
その様が綺麗で奇麗で、ただひたすら泣きたくなった。
「欲しかったのは、この景色だけだったのにな――なぁ、元就」