冒険の書をあなたに
ルヴァの耳の奥で最初にびりびりとひび割れた音がこだまして、その音が徐々に纏まりマーリンのしわがれた声となった。
これまでまともな音としてすら認識できずにいたマーリンの声がはっきりと伝わってきた。
驚きと嬉しさで愉快にならずにはいられない。
「ええ……ええ、分かります! こんなこともできるだなんて……まるで夢のようです、なんて素晴らしいんでしょう!」
魔物たちの声を聞き届けるアンジェリークの力を調整弁にすることで、言葉の音が整えられてルヴァの中に流れ込んできたのだ。
呪文のことにだけ意識が向いていたルヴァには気付けなかった活用法だった。
「先日お二人の戦い方を見てからずっと考えていたのです。天使様の調和のお力は、言葉の壁をも越えられるのではないかと……」
「あーそうですね、仰る通りです。一度あなたと直接お話してみたいと思っていたんですよ。願いがひとつ叶いましたねー」
嬉々として頬を上げるルヴァを、マーリンは静かに見つめて微笑んだ。
「至極光栄です。して、天空城の図書館はいかがでしたかな。わしは最早魔に堕ちたためにあの城へは入れないのです。入ろうとしても拒まれてしまいますのでな」
「ええ、それはもう素敵な空間でした。もし仮にこちらの世界へ自由に来られるなら、泊り掛けで読書に没頭していたい位でしたよー」
「それは素晴らしい! 書物のない城なぞ魂を欠いた体のようなものですからな!」
その言葉に一瞬おや、という顔をしたルヴァだったが、何も言わずに頷いてマーリンの言葉を待った。
「では早速本題に入りましょうぞ……お引き止めしたのは他でもない、賢者様に是非読んで頂きたい書物がありましてな」
マーリンがテーブルの脇に置いていた本──茶色い布張りの表紙に金の箔が押された重厚な作り──を、ルヴァの前に置いた。
「大した内容ではありませんが、賢者様がどうお思いになられるのか興味がありましての。なあに、ものの数分で読み終わります故」
ルヴァがその分厚い本を手に取ると、くく、と喉の奥で皮肉に笑うマーリン。
「こんなに分厚いのに、数分で読み終われるんですか? ……えっと、『Scripture of Evool』……イブールの経典、ですか」
さっと文章に目を落としてすぐに険しい顔つきに変わったかと思えば、ぱらぱらと数頁をめくる頃には氷のような嘲笑を浮かべていた────それはアンジェリークには見せたことのない、酷薄な笑いだった。
そこには教本という割には矜持のかけらもない、稚拙で他力本願な思想ばかりがだらだらと綴られていた。
「教団の教えに背く者は光の国へ辿り着けない。大教祖イブールを信じる者は神に愛される────ですか。はあ、なるほど」
ルヴァの顔からすっと冷笑が消え、静かに本を閉じた。
再び手を重ねるまでの動きをじっと見つめていたマーリンが口を開く。
「それを配り歩いていたのは光の教団の信者ですが、その教団の施設、大神殿を造り上げたのは……リュカを含む多くの奴隷たちなのです」
マーリンは唸るように声を絞り出すと、そっとグレーの目を伏せた。
教本をばら撒いて信者から集まった資金を使い、裏では子供を攫って奴隷にする。そして子供を奪われた家族が救いを求めて教団へすがりつく────悪循環だ。
「この程度の浅い内容で信者から資金を集めていたんですか……こんなものに易々と騙されてしまったために、沢山の命が失われたと……!」
どこにも行き先のない静かな怒りと哀しみがルヴァの体の中を駆け巡っていた。