Nosta -ノスタ-
都の門を抜けた騎手が、トゥーナの丘を真っ直ぐに駆け下りていく。
白馬の腹が西から射す金の木の光をうけて、さらに白く眩く見えた。
「何で私が…」
白馬を急かしながらフィンゴルフィンは独りごちた。
「来る気のない者など、放っておけば良いのに」
エルダリエは、子供が生まれた日をノスタの日として記念する。
その謂われをフィンゴルフィンは敢えて聞いたことはなかったが、想像するに東の方の目覚めの地、星明かりのクイヴィエーネンから長く危険な旅を経てアマンに辿り着いたエルダリエは、このヴァラールの力に満ちた一欠片も闇の無い世界で子を成す事を、喜びを作り出す事と同義と感じ一つ一つ、記念せずにはいれなかったのだろう。
その日は、兄フェアノールのノスタだった。
しかし兄の母ミーリエルは、兄を生み出す事で疲れ切り、自ら肉体を捨ててマンドスの館に去っていた。
夫婦の記念の日に、その一方が欠けているのだから、ノスタを言祝ぐのはおかしかろうと思うのだが、ノルドール王フィンウェの二度目の妻となったインディスは、ノスタは子供にとっても記念日であると言って、夫婦よりも子供達の為にその日に家内で小さな祝賀会を開く事を常としていた。
二度目の妻である母からすれば…と、フィンゴルフィンは思う、実母を失った兄フェアノールに、なんとか他の子供達との違いを感じさせぬようにと腐心した手立てだったのだろうと。
しかしフィンゴルフィンは、ノスタであろうと他の日であろうと、兄が異母兄弟である自分達と同席して楽しげにする姿は見たことは無かった。
父王の御前で諸侯と共に、ノルドランの一族として都の造営や統治について意見を求められるならば、それは欠くことは出来ぬ席であったが、たかが家内の催しならば、取りやめにしたところで誰も気にとめはしない。
楽しまぬ者を、呼びつける方が相手にとっても負担だろうと思うのだが、母のインディスも、姉のフィンディスも、兄のノスタの祝賀を取りやめにしようとはしない。
本当に来る年来る年、意地のように…。
「あなた、弟なのだから、お兄様をお呼びしてきなさい」
近頃、母に瓜二つになって来た姉が、当然の事のようにそう言った。金の木の目覚め時を過ぎ、あと一刻程で祝賀の会食を始める段になって、館の中に兄が居ない事が判った。
普通、一刻も前ならば、そのうち帰ってくるだろうと思うところが、兄に関してはそうではない。
一刻前に居ないのなら、今日はもうその日に成す何かを開始してしまったと考えるのが順当なのだ。
「今日、ノスタの会食をすると、兄上にお知らせしたんですか?」
「自分のノスタを忘れる者はおらぬでしょう?」
姉の言葉に、フィンゴルフィンはがっくりと肩を落とした。
言わずに通じる相手と、そうでない相手を見分けて欲しい…。
いや実際は、他の家族と同じように言わなくても通じていて欲しいと、そう願っていた結果なのだろうけれど…。
「―――お母様をがっかりさせたくないから、ね?」
有無を言わせぬ姉の言い振りに、フィンゴルフィンは渋々館を出た。
トゥーナの頂に聳えるミンドン・エルダリエーヴァ。
その眩く輝く白い塔を中心に据えたティリオンの宮廷には、父王の呼び出しがなければ特に兄も出向くことはなく、その日、王の呼び出しがないことは確認済みだった。
となれば、通常兄が居る所は王家の工房か、もしくは兄の師である鍛冶師マハタンの工房の筈である。
フィンゴルフィンはまず、マハタンの館に兄が居ない事を家人に確かめさせると、生い茂る白の木の葉影が地面に美しい模様を描くミンドンの足元の広場を横切り、王家の工房を訪れた。
しかし、こちらにも兄の姿はなかった。
「フェアノール様は、お館に戻られたのだとばかり思っておりました」
工房で働く技術者達は口を揃えて言った。
ノルドール王フィンウェの息子フェアノールは、新しい炉の制作に熱中し、ここ一週間ほど工房に入り浸っていたと言う。
それが今日、二つの木の薄明の刻の前に、やっと腰を上げて工房を出て行ったので、皆は王子が、ようやく休養を取る気になり館に戻ったのだと思ったのだった。
「その、兄上の炉は完成したのか?」
兄の作っていた物が気になり、フィンゴルフィンは言った。
技術者達は互いに顔を見合わせ、そしてようやく金属細工の親方が口を開いた。
「フィンゴルフィン様、我々にはフェアノール様が作られる物の仕組みは全く理解出来ません。マハタン殿ならば、幾ばくかは王子の作ろうとされている物を理解出来るのかもしれませんが…。」
そう言って彼は工房の一角にフィンゴルフィンを案内した。
「これが、フェアノール様が取り組んで居られた炉です」
「炉?」
フィンゴルフィンはそう聞き返さずにはいられなかった。
それは美しい細やかな模様の刻まれた、小振りの長持ちのように見えた。
しかし表面の色はくすんだ金色で、それがかなりの重量を持つ合金製であることはフィンゴルフィンにも一目で判った。
しかし炉というからには、何らかの形で熱を起こし続けるものだと思うのだが、そのような仕掛けがどこにあるのか、それともそれはこれから作られるのか、そして何を加熱するものなのか、その美しいもの入れにしか見えぬ箱からは、全く想像が付かなかった。
「確かに、これは完成品か否か説明しがたいな」
兄の発想は創意に満ち、手の技は最早偉大な鍛冶マハタンをも唸らせるほどである、これが炉だというならどういうものを生み出すためのものなのか、フィンゴルフィンはひどく興味をそそられた。
しかし、いずれにしても、一週間もそこで取り組んでいたものを、今日に限ってそんな時分から行方を眩ましたのは、やはりノスタの会食を煩わしく思っての事に違いない…。
「兄上、馬が一頭おりませんよ」
「フィナルフィン。お前まで姉上に叩き出されたのか?」
工房の前に、弟の姿を見出してフィンゴルフィンは言った。
「いいえ。」
フィナルフィンは、笑って母と同じ美しい金色の頭を振った。
「―――でも、会食の準備に忙しい女性陣の中に座っていると、なんだかいたたまれなくて。それに母上も姉上達もなんだか、神経を張り詰めてるような感じですし。出来るだけ早くフェアノール兄上を見つけた方が良いでしょうから」
「ああ。」
フィンゴルフィンはうんざりしながら頷いた。
兄にとっても迷惑な筈だと見つけずに館に帰ったなら、その苛立ちの矛先は全部自分に向けられるだろう。聡明なヴァンヤールの生まれの母は悲しそうにするだけだろうが、母に顔立ちはそっくりでも意志の強い瞳も、黒髪もノルドール以外何者でもないような姉からは、言葉を尽くしてどれ程小言を言われるか判らない。
「馬が居ないとすると、兄上は都を出ておられるのか」
「そうかもしれません。ますます、すぐには見つけられないかもしれませんね」
「はあ…」
フィンゴルフィンは溜息をつくと、王家の厩へとティリオンの水晶敷き大路を下って行った。
作品名:Nosta -ノスタ- 作家名:葉月まゆみ