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一線

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低く囁く声は、煮詰めすぎて黒焦げになったカラメルを思わせた。喉を焼く苦味と、痺れるような、毒々しい甘さ。
「楽しくなんか、ねえ」
「俺は楽しかったよ。君も、楽しそうに見えた」
臨也の両手が、静雄の頬を押し包んだ。
「だれも、こんな風に君に触れたりしないだろう?」
暖かい掌が頬を滑って、静雄は、胸を突かれた。
「君の力は、恐ろしいからね」
金槌で額を打ち付けられたように感じた。同じような言葉を、何度も何度も繰り返し、様々な人間から聞かされているのに、静雄は、いつまでもその言葉に慣れはしなかった。だから、すぐに感情が振り切れるのだ。耳障りな言葉が耳に届くより先に、人の作為や悪意に対して、体が拒絶反応を示す。
「俺は少しは武術や…まあ、種明かしすることもないか。色々とかじっててね。だから君から逃げることもできるけど。普通の人間は無理だよね。あっという間に、君の力に潰されて、ペシャンコだ」
潰される、という言葉に、静雄の脳裏に忌まわしい記憶がフラッシュバックする。破壊された家具に押し潰された、優しい人の面影。津波のように押し寄せる暴力の波に霞むそれ。
迸る怒りにも動かない全身に焦れ、溢れたのか、静雄の眼球の奥に、痛みが走った。
「そんな、泣きそうな顔をしないで…」
顔面にふりかかり滑り落ちて来る声は優しげで、穏やかなのに、かけらも情を感じなかった。その声は、ただその場にある事実をつぶさに観察していた。静雄の内面に鋭く切り込んでおきながら、大きく開けた傷口を眺めているだけだった。
「ねえ、辛いんだろう?自分の力を押さえ込むことも、その力のせいで、人に避けられていることも。俺なら、君に触れるんだよ。君の力を解放して、発散させて、その上で、キミに、こうして触れられる…」
その指先だけが、優しく髪を梳いた。
「さわるな」
喉から絞り出された声は震えていて、静雄は羞恥を覚えた。
「俺に、触るな。男に触られたって、全然嬉しくねえ」
眼球の上にあった瞳が、驚いたように大きく丸く見開かれて、長いまつげに彩られた瞼が、ゆっくりと瞬きをした。
「そういう意味じゃ、無かったんだけどな」
静雄の髪と頬を撫でる手はそのままに、臨也は首を持ち上げ、思案顔をした。静雄は、臨也の悪魔的な視線と言葉から解放された隙間に、息を吐く。
「そういう意味で触ってあげても、いいよ」
静雄の髪や頬を撫で続けていた指が離れる。椅子から立ち上がり、ソファに横たわる静雄の前まで来ると、臨也はフローリングの上に敷かれたカーペットに膝をつき、静雄の上半身を囲うようにして、ソファの背もたれと、肘掛けに手をかけた。
「そんなにさびしいなら、そういう意味で触ってあげても、いい。ただ、触るだけね」
臨也が何を言っているのか、何をされるのか。
静雄はぼんやりとだが、わかっていた。
体が動かなかったのは麻酔のせいだが、避ける気にならなかったのは、先ほど、数少ない知り合いが同性愛者だと勘違いしたからかもしれないし、元々、世間の輪からはずされて生きてきた静雄の倫理観が危うかったからかもしれないし、もしも、自分に触れることのできるものがいるならば、それは誰でもかまわないと思っていたからかもしれない。
砂粒ほどの情もないとわかっていても、先ほど触れてきた臨也の指が、優しく、暖かかったからかもしれない。

指先が、まぶたにかかる前髪を払った。そのまま、耳を軽くくすぐられる。薄い笑い声が聞こえた。自分は、何故、この少年に飼われている犬猫のように、おとなしくされるがままになっているのだろう、と、思った。

でも、それも、どうでもいいことだった。

静雄の額の上に、臨也の黒い前髪がかぶさった。触れてきた唇は、ぬるい体温を持っていた。他人の息が体表にかかる感覚に、静雄は身を震わせた。こらえきれずに、重ねられたまま息を吐くと、臨也の喉から笑いが漏らされた。濡れた舌がほほを撫でる。

やがて口内に侵入してきたそれは、細く、薄く、蛇のようだった。

***


「静雄、体の調子はどうだい?」
早朝の光があふれるリビングで、三人掛けのソファに並んで腰掛け、静雄の腕を取りながら新羅が問う。なんともない、と返す静雄に、満面の笑みが向けられる。
「まったく、キミの生命力には感嘆しきりだよ。ぜひ解剖を」滑らかに回り始めた舌を、顎をつかみ上げることで黙らせる。悲鳴を上げる新羅を無言でにらみつけ、静雄は首を回した。
「臨也なら、一時間ほど前に出て行ったよ」
掴み上げた顎を解放してやれば、後れ毛の長い、跳ねた黒髪の少年は、静雄にとってまったく不要なことを言う。眉間に深いしわを刻む金色の髪の少年に、無邪気に微笑みかける。
「彼のこと、気に入った?」
死ぬほど嫌いだ、といえばまた笑う。何がそんなに嬉しいのか、静雄にはわからない。
「ねえ、静雄」
ふいに、新羅の指先が、シャツの上から、静雄の胸に触れた。昨日ぼろきれになったそれではなく、今静雄がまとっているのは、新羅からの借り物だ。その上から、まるで透かしてみているように、正確になぞり上げて。

ずいぶん見事に切られたものだねえ。まるで。

再び、なめらかにつむぎだされた言葉を、静雄は意識の端に追いやった。


数日後、塞がり始めた傷跡は、細く、長く。



まるで、赤い色の糸のようであった。

作品名:一線 作家名:さわたり