Ring
久保田の長い指先がコートのポケットに潜り込むのは、たいていが煙草の自販機の前だ。小銭を探って、足りるようなら有り金すべてをセブンスターに変えてしまう。
ただし、時任と歩いているときはその限りではない。彼は自分の歩くスピードを譲るということをしないから、久保田は静かにその後を、確かな歩みでついていく。
逆に、隣に相棒のいない今日のような日は、自販機の前でピタリと足がとまる。家にストックがあったかどうかを思い起こすこともなく、セッタ補充に迷いはない。
ポケットには一番大きいコインが一枚だけ入っていた。
(ま、とりあえず一箱)
チャリンと五百円玉を投入すると、自販機のランプが端から端まで点灯した。人差し指でお馴染みの銘柄を選択し、ガコンと落ちる煙草を取り出す。遅れて釣り銭の落ちる音を聞きながら、久保田はふと首をかしげた。
「えーと」
もう一度、ポケットを探る。指先に何も触れないのを確認して、逆のポケットにも同じことをする。
今度は大きな感触があった。ストラップを引っ張ると、携帯電話が姿を現した。だが残念ながら、久保田が探していたのはそれじゃない。
彼は少し迷ってから、二つ折りのそれをパチンと開けた。リダイヤルのリストから自宅のナンバーを選んで、耳にあてる。
鳴り響くコールを5回まで数えたところで、思い直して一度電話を切った。そして今度は着信履歴から相棒の携帯電話を選び出す。今度はコール1回で反応があった。
「あ、時任? お前いま外?」
『んにゃ、玄関だけど。ナニ?』
5回鳴らした家電の存在はあっさりスルーされた。時任は常々、靴を履いたあとの電話のベルは無視することを宣言している。
ともあれタイミングよく捕まえたようだった。
「悪いんだけどお前、家から出ないでくんない?」
『はァ!? なんでだよ』
「うん。実はさ、鍵忘れちゃって」
この時間に時任が出かけるところといえば、コンビニかコンビニかコンビニだ。マンションから2分のセブンにいてくれれば拾って一緒に帰れるが、時任はその日の気分によって、各コンビニをはしごする。諦めを嫌う性質は、求める物が見つかるまで労力を惜しまない。
駅向こうにはローソン、駅と逆方向に十分ほど行けばAMPMとミニストップ、よく利用するスーパーの近くにはファミマがあった。
おそらくゲーム中のお供を仕入れにいく時任は、何が食べたいのかを、店に行ってから考える筈だった。いかな久保田といえども、そんなコンビニリレーは面倒だ。
「ね、お願い。何か買ってって欲しい物があるなら、俺が買って帰るから」
『…………しょーがねーなァ』
わずかに笑いを含んだ声は、電話越しに聞いてもひどく甘い。時任が久保田を甘やかす時に出すそれだった。
じゃあ、さっさと帰ってこいよ。おねだりリストの最後に付け加えられた言葉に、久保田はうんと頷いた。時任はじゃあなと言って電話を切った。
彼がここぞとばかりに並べ立てたリクエストの品々は、大量ではあるけれどすべてマンション前のセブンイレブンでそろえられるものだった。つまり、早く帰ってこい、が時任の本音だ。
愛猫の可愛いおねだりを正しく理解すると、久保田の口の端に小さな笑みが浮かんだ。葛西にさんざん甘やかしすぎだと言われようと、彼の望みを全部叶えてしまう自分を知っている。久保田は、そんな自分が嫌いじゃなかった。
自分を好きだとか、嫌いとか。そんなことを考える日がくるなんて思わなかった。
(人生ってわかんないねぇ、――小宮)
随分前にさよならした忠犬のことを何となく思い出す。小宮が何を思って「生きて」の一言を遺したのかは今でもわからない。今の自分は彼の望んだ「トコロ」にいるだろうか。時任を生かすためなら、「野垂れ死」んでも許されるだろうか。
(あ、でもダメだわ)
たとえ小宮に許されたとしても、時任がそれを許さないだろう。久保田を唯一支配するその存在が。そして久保田にとって一番大事なことは、時任の瞳が輝きを失わないこと。
久保田が己の身体を使って彼を守るとき、時任の強い意志を湛えた瞳に、ひどく苦しそうな色が浮かぶ。あんな顔をさせたくはないから、久保田は徐々に時任と一緒に自分をも守ることを覚えた。
それでも時任の身体に銃が向けられたなら、迷うことなく自分の身を投げ出してしまうだろうけれど、それは最後の手段にしておかなければならない。そのためには降りかかる火の粉は、その場その場で完璧に払っておくべきだろう。
鵠の店を出た時から感じていた背後の気配を、撒くか払うかで迷っていたのだが、
(答えは出たし、買い物もあるし?)
くわえ煙草に火をつけると、久保田はそっとコートの上からコルトガヴァメントの堅い感触を確かめた。
鍵はダイニングのテーブルの上にぽつんと置かれていた。久保田はいつも裸のままで鍵を持ち歩いていたから、小さなダイスのついたキーホルダーに付け替えられたそれを見つけて、時任は何気なく手にとった。
だが。
「……なん、だよコレ」
そこには、自宅の鍵と一緒に見覚えのない鍵が一本繋がれていた。思わず目を見開く。
この家に――ないしは自分たちの生活に関わってくる場所の鍵なら、久保田はすぐに時任の分も用意してくれるはずだ。それをしないということは、この見知らぬ鍵は久保田のプライベートに属する物ということ。
「なんだよ……ソレ」
足下がガクンと揺れた。気がつけば時任はテーブルの前の床にへたり込んでいた。手の中のキーホルダーを見るのがイヤで、ぎゅっと両手でしまい込む。
「女の部屋の鍵……ってコトかよ」
そうじゃない。そう思いたいのに、時任の頭の中はもうその可能性しか浮かばなかった。
久保田に恋人がいるなんて話は聞いたことがない。だが恋人はいなくても、部屋の鍵を押しつけてくる女は後を絶たなそうだった。それをまた、メンドクサイの一言で受け取ったままにしそうな男だった。
問題は、久保田がその鍵を後生大事に持ち歩く予定だということ。今日のところはうっかり忘れたようだが、わざわざキーホルダーまで探し出して、家の鍵と一緒にしているというのはそういうことだろう。
いつも、帰宅時の久保田は自分の鍵を使わない。チャイムを鳴らして時任に出迎えをねだるのが常だ。ゲームを中断させられてブツブツ文句を言いながらも、実は時任はその瞬間がとても好きだった。
扉の内側で、久保田を迎え入れるために施錠をはずすその優越感。チャイムの後に続くインターフォンの声は、のほほんと甘い。
それが、
(どっかのオンナとも同じことしてんのかよッ!)
チャイムを鳴らして、ドアを開けてもらって、女の部屋に上がり込む久保田。合い鍵を使わずに、インターフォン越しに開けて?とねだる久保田。
そんなのはダメだ!
かあっと頭に血が上って、目の前が真っ赤になる。そんな久保田は我慢ならなかった。時任は、悔しさのあまり唇をギリッと噛みしめた。
久保田にとって、自分が特別なのは知っている。それは疑う余地はない、と思う。この鍵の主と時任を比べて、万が一にも久保田が相手の女性の手を取ったりしないということも、重々わかってはいる。