Ring
けれど、そういうことではないのだ。
柔らかな身体一つで、簡単に久保田を癒せる存在。時任にとって久保田に関わる女はすべてそうカテゴライズされている。
そこにはおそらく、愛も興味も執着もない。そうとわかっていて、なお悔しい。許せない。
感情のまま拳をギュッと握りしめると、手の中でぐにゃりと嫌な感触があった。
「――っ、ヤベ…」
慌てて開いた手のひらの中心で、憎らしい鍵は使い物にならないほどに捻れて横たわっていた。
久保田は時任に気づかれないように、こっそりため息をついた。
電話越しの声がとても柔らかかったので、てっきり機嫌はいいのだと思っていた。それなのに一時間たらずで何が彼の心を乱したのか。久保田が帰宅してからずっと、猫はひどく傷ついた顔をしてこちらを伺っている。
ちらちら飛んでくる視線は、どこか物言いたげで、久保田は何度か、「どうかした?」と尋ねたのだが、時任は黙って首を横にふった。
声も出ないほど何を思い悩んでいるのか、教えてほしいなあと久保田は思う。それがダメならせめて、不条理な八つ当たりでいいから、悪態をついてくれないかな。
PSのコントローラーを握りながら、時任の心がゲーム画面にないのは明白だった。
仕方なく久保田はソファから立ち上がった。テレビの前であぐらをかいている時任の肩がわずかにゆれる。
キッチンで熱湯を使ったコーヒーを作り、一つのマグには半分近くの牛乳を入れる。猫専用のそれを彼が座る横に置いてやると、時任は小さくサンキュと呟いた。
(少しは何か話してくれるかな?)
期待に胸膨らませながらも、むりやりこちらを向かせるようなことはしない。一口含んだコーヒーが、いつもと同じものなのに妙に苦く感じた。
久保田は、コーヒーをできる限り時間をかけてゆっくり飲んだ。けれど、マグが空になっても時任からの言葉はなかった。
今日は諦めて眠るべきかもしれない。そう思った時、時任がようやく重い口を開いた。
「なあ、あのさ…」
「…うん」
「久保ちゃん、俺の前に、えっと……誰かと一緒に暮らしたこととかってあるか?」
「うん?」
思ってもみなかった方向から話を降られて、久保田の声に困惑が滲んだ。なぜいまそんな話題が出てくるのか、時任の思惑がさっぱり読めない。
だが、振り向いた彼の瞳は、思いの外真剣で、まずは素直に答えることにする。
「あるけど?」
「――ッ!!」
「でもなんで?」
「あ、あー、えと、ホラ花火! こないだ花火やったじゃん」
「こないだって……去年の話なんだけどね。ま、いいけど。それで?」
「あれってさ、余りモンだったじゃん」
「うん。そぉね」
「まさか一人でやったワケじゃねえだろ?」
「そりゃま、そうだけど」
「……そのときもベランダでやったりしたのか?」
わずかな沈黙の後に添えられた言葉は、時任が本当に聞きたいことではないように思えた。それでもその質問は久保田の頭の中にすうと入り込んで、三年前の夏、まだ小宮が生きていた頃に意識が戻る。コンビニで見つけた花火セットを購入して、恥ずかしがる彼を引き連れていったのは確か、事務所近くの公園だった。
例によって、「ヤクザが公園で花火なんて…」とぼやく彼を笑いながら、二本に一緒に火をつけた。片方を小宮に持たせようと思ったからだったが、思ったよりも勢いよく吹き出す火花に小宮は顔をしかめた。
そして彼は「花火ってのは一本ずつやるもんッスよ」と新たな花火を取り出して、根本に自分のライターをかざした。
さすがに大量に買い込んだそれを全部を消費したりはしなかったけれど、あのときの彼は言葉とはうらはら、楽しそうな顔をしていた気がする。
もう遠い記憶だ。小宮の顔も声も記憶の中では朧気で。七ヶ月間、あれほど毎日のようにつるんでいた相手なのに、ぼんやりとしか思い出せない。人が死ぬ、というのはそういうことなのだろうか。
だが久保田にとって、もし小宮の存在が「死」以外の原因で己から切り離されたとしても、やはり今のように靄がかかったようにしか思い起こせない気がする。
たとえば時任のことなら、彼がどこにいても心にくっきりとその輪郭を描けるだろう。近くにいても離れていても。遠い記憶でも近い記憶でも。
久保田は、額に皺を寄せたまま久保田の答えをじっと待っている猫の黒髪に、そっと手を伸ばした。
「久保ちゃん?」
「公園だったよ」
「え?」
「だから花火。あのときは公園でやった気がする」
「…………それってそんなに考え込まないと、思い出せねーモンなのかよ」
「んー、正直あんまりよく覚えてないカモ?」
「あ、そう」
さらさらした手触りは久保田の心を擽るけれど、時任の額には深い皺がもう一本追加で刻まれたようだった。
「久保ちゃんて、そうだよな」
「ん?」
「いっつもそうなんだよな」
「なにが?」
「これからもそうなのかな…」
「――時任?」
さすがに不振に思って覗き込むも、彼は俯いて表情を隠してしまった。久保田の手を静かに外す。
拒絶された右手をじっと見ていると、時任は久保田に背を向けた。
「俺、やりたいゲームあるから。久保ちゃん先に寝るんならベッド使っていいぞ」
いつもはピンと伸ばされている背中が、気落ちしたように丸まっている。そんな状態の時任を放って眠りに行けるわけもない。
久保田はその小さな背に手を伸ばしかけたが、触れる前に諦めて落とした。
「……わかった」
時任が一人になることを望むなら、それを妨げるべきではない。自分の感情がどうあれ、それが久保田の真実だ。本当なら後ろから強く抱きしめて、時任の抱えている秘密をすべて暴いてしまいたい。けれど、それはただの久保田のエゴだ。時任はあれで案外ナイーブだし、意地を貫きとおす性格だから、隠そうとしている部分を不用意に蹂躙してしまったら酷く傷つくだろう。
「じゃ、オヤスミ」
「……ああ」
普段は交わさない就寝の挨拶が、深夜の冷えた部屋に空々しく響いた。
「…………ッ、クソ……」
突然訪れた引き連れるような痛みから二十分ほど。ようやく痛みがやや薄らいできた。
時任は、ギュッと握りしめていた手首からおそるおそる手を離す。いつもは革手袋で隠れている獣の手と人間の腕の連結部分が月明かりに照らされ、よく見えた。
目をそらしたりはしない。自分の手だ。一時的に目隠しをしたからといって、問題は何も解決しない。
獣の手や、痛みや、空っぽの記憶――辛かったり悔しかったり悲しかったりしても、そんなもので時任は簡単に傷つけられたりしない。
目をそらしてしまいたいのは、久保田に合い鍵を渡した相手のこと。そして、以前一緒に暮らしていたという相手のこと。花火を一緒に楽しんだという相手とは同一人物なのだろうか。考えれば考えるほど時任の胸はじくじくと痛み続ける。
諦めない、逃げない。それをモットーにしている自分が、久保田のことになるととたんに及び腰になるのが情けなかった。