うみねこ島の夜
ただ、いまは違った。笑う準備ができていなかった。サンゴロウの、一概に何色と定義できない両の目から、俺の心のうちを隠しとおせるほどの猶予がなかった。サンゴロウは静かにまばたきをした。俺はいまどんな顔をしているんだろう。俺の目はどんな色をしているんだろう。内心を悟られるのも怖かったけれど、それ以上に俺は自分がサンゴロウに敬遠されてしまうことを恐れていた。自由を重んじるサンゴロウのことだから、こんな面倒な感情を知られたらすぐに離れていってしまうと思った。
「いや、あの、」
「うん?」
「……なんて言ったらいいか、」
「…はは」
予想に反してサンゴロウは笑ってみせた。あっけにとられてみつめると、間抜けな顔だなあとますます笑われた。サンゴロウは俺の動揺や感情に気付いていないようにみえた。気付いても知らんふりしてくれるやさしさを持ってるっていうのも、知ってはいるけど。笑いをおさめたサンゴロウは、なおもやさしい目をして、そんな目でみるなよと言った。
「…そんな目?」
「ああ。わかってないの?」
「わかるわけないだろ。無意識だよ」
「ならなおさらたちが悪いなあ」
「はあ?」
サンゴロウは紅茶を飲み干して(そういえば、紅茶はとうに冷え切っていた。俺のからだも。)、カップを傍らにおくとからだごと俺のほうを向いた。もう笑ってなくて、じ、と俺をみていた。変に緊張して、俺は自分のカップを胸の前で両手で持った。なにかから自分をかばうために。なにかっていうか、サンゴロウから。サンゴロウはそんな俺の様子をみて、ゆっくり手を伸ばして俺からカップを奪った。実際にそれはゆっくりした動作だったけど、俺の目にはそれにも増してスローモーションのようにみえた。サンゴロウは俺の分のカップもおいた。おいて、俺の耳に手を這わせた。先のとんがりから、外側をつう、となぞって、ゆっくり頬まで手をおろして、指先まで使ってゆっくり離れた。その間俺は身動きを全くせず、というかできず、それでも背中からしっぽまでの毛がぶわ、と逆立つのがわかった。サンゴロウ、と言った俺の声はひどくかすれていて、静かなうみねこ島の夜でも聞きとるのは多分、すごく難しかった。
「おまえが考えてることは、多分、わかるよ」
「………考えてること、」
「それで、だけど、これが俺だから、それはどうしようもないんだ。俺にも」
「…そんなの、わかってるさ」
「それもわかってる。でもな、ナギヒコ。ナギヒコにもひとつ、わかってほしいことがあって、」
それはなにかっていうと、俺はおまえを大事に思ってるってこと。
サンゴロウはそう言った。言って、俺のふくらんだままのしっぽを、なだめるようにぽんぽんとたたいた。かえってふくらんだけど。俺はほとんど泣きそうになっていて、サンゴロウはめずらしく、少し困ったように目を細めた。なにしろ俺に触るたびに俺のしっぽの毛が逆立つのだ。
「ナギヒコ、」
「サンゴロウ、おまえ、」
「うん」
「おまえ、ずるいよ……」
「そんなの」
前から知ってたろ、とぬけぬけと言う。そうだけど。ああ、その通りだ。サンゴロウのことなら他のだれより知っている自信がある。少なくとも、ここに来てからのことなら。でもそれがなんだっていうんだろう。そんなの、別に安心材料じゃないんだ。それだけ、サンゴロウが自分から遠ざかるたびに不安をあおられるんだ。俺はとうとうこぼれ落ちた涙を急いでぬぐった。顔が濡れるのと手が濡れるのとなら、手のほうがまだましだ。サンゴロウは苦笑いしながら俺をみている。泣かすつもりじゃないんだけどな、とか言うだろうなと思ったらやっぱり言ったので、それは少し面白かった。
「…サンゴロウ、」
「なに」
「さむい、」
「……おまえもじゅうぶん、ずるいよ」
まばたきしたらまた涙が落ちた。今度は向かいに座っている黒ねこの手が俺の頬をぬぐった。迷うように手がとまったから、そっと手を重ねてみた。サンゴロウは少しからだを震わして、でもすぐに緊張をほどいて手に力を込めた。俺だって、と俺は呟いた。さっきからうわごとみたいに、言葉がひとりでに口から滑り出てきている気がする。俺だってなに、と黒ねこは小さく聞き返した。
「俺だって、おまえが大事だよ」
そう言うとサンゴロウはうつむいて肩を揺らし、ああ、と小さく返事をした。だらりと力なく垂れた手を俺の肩に乗せて、うつむいたままからだを倒して俺によりかかってくる。額をすりつけて、もう一度、うん、と言って、サンゴロウはぎゅっと目を閉じた。子供みたいなしぐさだった。実際、いまの俺たちは夜の闇におびえて、途方にくれて、身を寄せ合っている子供みたいなものだった。俺たちはなにかから目を逸らしている。とてもおおきくて、大切で、手に負えないなにか。サンゴロウは目を閉じたまま、おまえの心臓早いな、と笑った。うん、と答えて俺は空を見上げた。サンゴロウがこうなので、もう俺の涙をぬぐってくれるひとはいないのだ。行き場をなくした涙が目のうえにたまって、星たちと月、それから街頭の明かりをぼやぼやとおぼつかないものにした。
サンゴロウ、いまの俺にはおまえの心音はきこえない。だけど、それでも、おまえの首筋の真っ黒な毛が逆立ってるのは、みえるよ。
風に吹かれて、空のカップが倒れてかたかた音を立てた。それでも俺たちは、途方もない感情を持て余してお互いの温もりだけをあいしていた。