冥府の守人
地獄までお使いに行けと言われたときには、正直「しくったな」と思ったんだけどなあ。優しく髪を撫でる手にゆっくりと目を閉じながら、ヘルメスは一年前を思い出していた。
ヘルメスの出生は、決して幸せなものではない。幸いなことに母親に嫌われるということはなかったが、父親には恵まれなかった。いや、人によっては恵まれているというものもあるかも知れないが、少なくともヘルメス自身は恵まれているとは思えなかった。それなら、神だろうが人間だろうが母と自分を愛してくれるものの方が幸せに決まっていると彼は思う。父とは血が繋がっているだけで、彼の父は彼に何もしてくれることはなかったのだから。彼の父、大神、ゼウスは。
ゼウスを父にもつ神や人間は多い。それだけゼウスが好き勝手に振る舞っているからだ。本人は子孫繁栄のためとか都合のよいことを言っているが、あれは彼を知るものが言うとおりにただの色情狂だ。ただ、そんなことを言って万が一にも彼の耳に入ればそれはそれで大神の力で罰せられるのだから、誰も口にしないだけである。そして、彼は無責任だとヘルメスは思う。この間アポロンと話したときにも思ったが、ゼウスは大神のくせに思慮が浅いのだ。
ゼウスを父に持つ子は、大抵苦労をする。なぜならゼウスには恐ろしい妻がいるからである。名は、ヘラ。ゼウスの実の姉であり、彼の三人いる姉は皆一様に美しいのだがそのなかでも最も美しい。だがその気性は鬼神のように荒い。その彼女が結婚を司る神だというのだから、結婚という物が多く嵐につきまとわれている理由が分かる気がする。……そういうと、他の女神たちに怒られることもあるのだが。
ヘラは、計算高い上にとても嫉妬深い。ある意味とても女性らしいと言えるのだが、それにしても度が過ぎている。ゼウスの子が幸せになりにくい理由はそこだ。ヘラは、ゼウスが手を出した女性とそのせいで出来た子どもに嫉妬心を燃やし、時に異常なほどの意地悪をするのである。たとえそれが女性の望んだことではなく、ゼウスによって無理矢理なされたことであっても――だ。こうなると、もはや避けようのない天災のようなものである。そしてヘルメスの母は、ゼウスの被害に遭ったものの一人だった。
ヘルメスの母は、名をマイアという。マイアの父親であるアトラスはティタン神族の一人で、先のクロノス派のティタン神族とゼウス一族との戦いで負けた。そのため彼は、地の果てで天を支えるという罰を受けている。マイアは父親を助けるためにゼウスの誘いに乗ったのだが、ゼウスはアトラスを許すことはなく、マイアは一人で子を産んだ。その子がヘルメスである。つまりヘルメスは、誰かと誰かの愛の証などというものではなかった。
ヘルメスが生まれた後、ゼウスは普段と同じく、自分の子どもを愛すことはなかった。マイアはヘルメスを慈しんだが、手放しで愛するかといえばそうではなかった。なんせ、父の敵である男との子どもなのだ。それでも、虐めたりしなかった彼女は優しい女性だったと言える。息子に見え隠れする父親の部分を憎んだって、仕方がない位なのだから。
ヘルメスは賢い子どもだった。神であるので、彼は勿論普通の子どもとは違っている。しかし、子どもの神の中でも彼はずば抜けて賢い子であったと言える。生まれてすぐに自分を取り巻く環境の複雑さと危うさを悟った彼は、自分と母に災厄が及ばないよう極めて上手に生きてきた。
その賢さは、ただのそれよりも狡賢さと言えるものでもあった。たとえば、こんなエピソードがある。
あるときヘルメスは、太陽の神であるアポロンが飼っている牛たちを見つけた。健康そうに育てられている牛たちは何とも旨そうで、その時ヘルメスは腹が減っていた。また、どうにかして現在力を持っている神たちに気に入られる方法はないかと考えていた。草を食んでいる牛たちをしばらく見ていたヘルメスは、「そうだ」と言って立ち上がると、一度家に戻った。そして母、マイアの靴を持ち出すとそれに履き替え、牛たちを連れ出したのだ。子どもがやったこととばれないように、という小細工だった。彼は盗んだ牛のうち二頭をゼウスたち神々に捧げ、残りは自分の家に隠した。
とはいったものの、まあ所詮は子どもの悪知恵だ。また、予言や占いの能力を持つアポロンにそんな細工が通じるわけはなく、あっさりとばれてしまった。アポロンはゼウスたちと一緒に牛の肉を食べていたヘルメスを捕まえると、ゼウスにその場で「どのように罰しましょうか」と尋ねた。話を聞いたゼウスはヘルメスの幼いながらの小賢しさに感心したような呆れたような溜息を吐きながら、「子どもがしたことだから」と言ってアポロンに許すよう命じた。結局ヘルメスは残りの牛を返すことでアポロンから許されることになったのだが、アポロンからはしばらく無視されるようになった。アポロンは太陽神である以外に理性の神でもある。たとえ子どもであっても、罪を許し難かったのだろう。
ここで終わらないのがヘルメスである。彼は器用な手先を利用して亀の甲羅と牛革で竪琴を作ると、それをアポロンに捧げ、改めて盗みを謝り許しを請うた。アポロンが竪琴を奏でると、その音は、今までに聞いたことのないような含みのある美しい音で、アポロンは思わずヘルメスがいるのも忘れてそれをかき鳴らした。ヘルメスはその様子を、にんまりと笑いながら見ていた。しばらく音を楽しんだ後、アポロンは「そうだな」と言った。
「それじゃあ、この間の二頭の牛は、この竪琴の代金としよう。これで、お前は盗みを働いたわけではなくなった。よって、私への借りもなくなった。……良いな?」
「ええ、もちろん!」
こうしてヘルメスはアポロンから正式に許されたのだった。また、この後もヘルメスはアポロンの元に通い、「アポロン様に是非弾いていただきたくて」と言って笛も献上しているのだから抜け目がない。笛を貰い、また何かと慕ってつきまとうヘルメスを少し可愛く思っていたアポロンはその後、彼に眠りの杖をやった。これは眠りをコントロールする杖で、ヘルメスはそれを使ってアポロンの牛の世話を手伝った。今ではヘルメスとアポロンは、お互いゼウスを父に持っていることもあって良い友人となっている。
話が逸れたが、このようにヘルメスは狡賢さの他に人に好かれる才能も持っていた。様々な神に声を掛け、時にお使いを頼まれる。彼は決して嫌だとは言わずに次々に言いつけをこなし、時にはヘラからも用事を頼まれるほどであった。そうやって徐々に居場所を作っていった彼は、少年期も後半にさしかかったころには立派にゼウス一派の一員として認められるようになっていた。
地獄へのお使いを頼まれたのは、そんなときだった。子どものころにはよくお使い役にされていた彼も、さすがにここまで大きくなると雑用に使われることはそうなくなっていた。しかしある日、ゼウスが難しい顔をしながらヘルメスを呼び寄せたと思うと、「悪いがハデスのところまで手紙を届けてくれないか」と言った。
「ハデス……ハデスさまって、ゼウスさまのお兄さまですか?」
「そうだ。緊急の用事でね、私は別のところに行かなきゃならないから、頼むよ」
「え……でもハデスさまがいるところって、あの世ですよね?」
ヘルメスの出生は、決して幸せなものではない。幸いなことに母親に嫌われるということはなかったが、父親には恵まれなかった。いや、人によっては恵まれているというものもあるかも知れないが、少なくともヘルメス自身は恵まれているとは思えなかった。それなら、神だろうが人間だろうが母と自分を愛してくれるものの方が幸せに決まっていると彼は思う。父とは血が繋がっているだけで、彼の父は彼に何もしてくれることはなかったのだから。彼の父、大神、ゼウスは。
ゼウスを父にもつ神や人間は多い。それだけゼウスが好き勝手に振る舞っているからだ。本人は子孫繁栄のためとか都合のよいことを言っているが、あれは彼を知るものが言うとおりにただの色情狂だ。ただ、そんなことを言って万が一にも彼の耳に入ればそれはそれで大神の力で罰せられるのだから、誰も口にしないだけである。そして、彼は無責任だとヘルメスは思う。この間アポロンと話したときにも思ったが、ゼウスは大神のくせに思慮が浅いのだ。
ゼウスを父に持つ子は、大抵苦労をする。なぜならゼウスには恐ろしい妻がいるからである。名は、ヘラ。ゼウスの実の姉であり、彼の三人いる姉は皆一様に美しいのだがそのなかでも最も美しい。だがその気性は鬼神のように荒い。その彼女が結婚を司る神だというのだから、結婚という物が多く嵐につきまとわれている理由が分かる気がする。……そういうと、他の女神たちに怒られることもあるのだが。
ヘラは、計算高い上にとても嫉妬深い。ある意味とても女性らしいと言えるのだが、それにしても度が過ぎている。ゼウスの子が幸せになりにくい理由はそこだ。ヘラは、ゼウスが手を出した女性とそのせいで出来た子どもに嫉妬心を燃やし、時に異常なほどの意地悪をするのである。たとえそれが女性の望んだことではなく、ゼウスによって無理矢理なされたことであっても――だ。こうなると、もはや避けようのない天災のようなものである。そしてヘルメスの母は、ゼウスの被害に遭ったものの一人だった。
ヘルメスの母は、名をマイアという。マイアの父親であるアトラスはティタン神族の一人で、先のクロノス派のティタン神族とゼウス一族との戦いで負けた。そのため彼は、地の果てで天を支えるという罰を受けている。マイアは父親を助けるためにゼウスの誘いに乗ったのだが、ゼウスはアトラスを許すことはなく、マイアは一人で子を産んだ。その子がヘルメスである。つまりヘルメスは、誰かと誰かの愛の証などというものではなかった。
ヘルメスが生まれた後、ゼウスは普段と同じく、自分の子どもを愛すことはなかった。マイアはヘルメスを慈しんだが、手放しで愛するかといえばそうではなかった。なんせ、父の敵である男との子どもなのだ。それでも、虐めたりしなかった彼女は優しい女性だったと言える。息子に見え隠れする父親の部分を憎んだって、仕方がない位なのだから。
ヘルメスは賢い子どもだった。神であるので、彼は勿論普通の子どもとは違っている。しかし、子どもの神の中でも彼はずば抜けて賢い子であったと言える。生まれてすぐに自分を取り巻く環境の複雑さと危うさを悟った彼は、自分と母に災厄が及ばないよう極めて上手に生きてきた。
その賢さは、ただのそれよりも狡賢さと言えるものでもあった。たとえば、こんなエピソードがある。
あるときヘルメスは、太陽の神であるアポロンが飼っている牛たちを見つけた。健康そうに育てられている牛たちは何とも旨そうで、その時ヘルメスは腹が減っていた。また、どうにかして現在力を持っている神たちに気に入られる方法はないかと考えていた。草を食んでいる牛たちをしばらく見ていたヘルメスは、「そうだ」と言って立ち上がると、一度家に戻った。そして母、マイアの靴を持ち出すとそれに履き替え、牛たちを連れ出したのだ。子どもがやったこととばれないように、という小細工だった。彼は盗んだ牛のうち二頭をゼウスたち神々に捧げ、残りは自分の家に隠した。
とはいったものの、まあ所詮は子どもの悪知恵だ。また、予言や占いの能力を持つアポロンにそんな細工が通じるわけはなく、あっさりとばれてしまった。アポロンはゼウスたちと一緒に牛の肉を食べていたヘルメスを捕まえると、ゼウスにその場で「どのように罰しましょうか」と尋ねた。話を聞いたゼウスはヘルメスの幼いながらの小賢しさに感心したような呆れたような溜息を吐きながら、「子どもがしたことだから」と言ってアポロンに許すよう命じた。結局ヘルメスは残りの牛を返すことでアポロンから許されることになったのだが、アポロンからはしばらく無視されるようになった。アポロンは太陽神である以外に理性の神でもある。たとえ子どもであっても、罪を許し難かったのだろう。
ここで終わらないのがヘルメスである。彼は器用な手先を利用して亀の甲羅と牛革で竪琴を作ると、それをアポロンに捧げ、改めて盗みを謝り許しを請うた。アポロンが竪琴を奏でると、その音は、今までに聞いたことのないような含みのある美しい音で、アポロンは思わずヘルメスがいるのも忘れてそれをかき鳴らした。ヘルメスはその様子を、にんまりと笑いながら見ていた。しばらく音を楽しんだ後、アポロンは「そうだな」と言った。
「それじゃあ、この間の二頭の牛は、この竪琴の代金としよう。これで、お前は盗みを働いたわけではなくなった。よって、私への借りもなくなった。……良いな?」
「ええ、もちろん!」
こうしてヘルメスはアポロンから正式に許されたのだった。また、この後もヘルメスはアポロンの元に通い、「アポロン様に是非弾いていただきたくて」と言って笛も献上しているのだから抜け目がない。笛を貰い、また何かと慕ってつきまとうヘルメスを少し可愛く思っていたアポロンはその後、彼に眠りの杖をやった。これは眠りをコントロールする杖で、ヘルメスはそれを使ってアポロンの牛の世話を手伝った。今ではヘルメスとアポロンは、お互いゼウスを父に持っていることもあって良い友人となっている。
話が逸れたが、このようにヘルメスは狡賢さの他に人に好かれる才能も持っていた。様々な神に声を掛け、時にお使いを頼まれる。彼は決して嫌だとは言わずに次々に言いつけをこなし、時にはヘラからも用事を頼まれるほどであった。そうやって徐々に居場所を作っていった彼は、少年期も後半にさしかかったころには立派にゼウス一派の一員として認められるようになっていた。
地獄へのお使いを頼まれたのは、そんなときだった。子どものころにはよくお使い役にされていた彼も、さすがにここまで大きくなると雑用に使われることはそうなくなっていた。しかしある日、ゼウスが難しい顔をしながらヘルメスを呼び寄せたと思うと、「悪いがハデスのところまで手紙を届けてくれないか」と言った。
「ハデス……ハデスさまって、ゼウスさまのお兄さまですか?」
「そうだ。緊急の用事でね、私は別のところに行かなきゃならないから、頼むよ」
「え……でもハデスさまがいるところって、あの世ですよね?」