冥府の守人
ゼウスは大神だが、彼の兄弟の中では末っ子である。姉が三人、それと兄が一人だ。ゼウスたちはティタンの神族との戦いに勝利したとき、兄弟三人で今後治めるべき場所を決めるクジを引いた。その時にゼウスは天と地、ポセイドンは海、ハデスは冥界となった。海の神であるポセイドンはよくオリュンポス山まで来るが、ハデスは滅多に地上に上がってくることはない。なんせ毎日人は死ぬのだし、おちおち冥界を離れるわけにはいかないからだ。そのせいでオリュンポス山に彼の席はなく、ゼウスの兄弟の中でもあまり存在感はなかった。重要な神であることにはかわりはないのだが、冥界というのはどうしても世界が違うのだし。
「ちょっと、怖いですよ。戻ってこられなくなったらと思うと」
「そんなことはないさ。お前は私の息子だし、神なのだから」
「でも……」
今までお使いをこなしてきたのだから、冥界でもすんなり行くだろうと思われたのだろうとヘルメスは思った。ちょっとしくじったな、と彼はそうも思った。冥界なんて、誰も行きたがらないからゼウスも押しつけようとしているに違いない、と。行きたいはずが無いじゃないか、あの世なんて。
なかなかうんと言わないヘルメスに、ゼウスは困って「じゃあ、お前にはこちらの世界と冥界を自由に行き来できる能力を与えよう」と言った。
「この力があれば、戻ってこられなくなることは決してない。他の神も、まあ行き来できないことはないのだがちょっと面倒だからな。その力はあの世とこの世というより、ハデスとの直通の道だとでも思えばいい。地獄は深いが、ハデスのところにすぐに行くことが出来る」
「それなら、いいですよ」
地獄を延々と歩いていくのはぞっとしないが、ハデスとの直通ならばまだましだ。手紙を渡してすぐに帰ればいい。
ゼウスはついでに翼のついたサンダルと被り物もヘルメスに与えた。これにより、ヘルメスは旅行の神としての役割も担うことになる。ゼウスの元を下がったヘルメスは「さっさと行くか」と帽子を被り直すと、「あら」と声を掛けられた。
「どうしたの、ヘルメス。その帽子は」
「あ、ヘラさま」
ゼウスから貰ったのだというと、ヘラは「なぜ?」と不思議そうな顔をした。
「ハデスさまのところにお使いを命じられて、そのご褒美に」
「まあ、ハデスのところへ?」
用事を告げると、とたんにヘラは明るい顔をした。そして、「ちょっと待っていて」と言ってその場を離れた。何だと思っていると、彼女はやがて花束を手にして戻って来た。
「これも、ついでに持って行って。急だったから、私の部屋に飾ってあったものだけれど、冥界なんて寂しいところでしょうから」
「ええ、いいですけど……」
ヘルメスは驚いた。なぜなら、ヘラの表情がとても穏やかなものだったからだ。普段、ヘラといえば厳しい顔しかしていない。それもこれもゼウスのせいなのだが、彼女がこんな、まるで人を慈しむような表情をしているところをヘルメスは初めて見た。
「ハデスさまのこと、大事なんですね」
するりと出たことばは失礼だったかも知れないが、ヘラは小首をかしげると「そうね」と答えた。
「冥界なんかを治めることになってしまって……あの子が天と地を治めていれば、この世はもっと穏やかだったのかも知れないのに」
ゼウスが聞いていたら嘆きそうなことをさらっと口にすると、ヘラは「お願いね」と言って去っていった。ヘルメスは首をかしげながら、「まあいいや」冥界へと向かった。
ハデスという神を、ヘルメスは見たことがない。しかし、なんとなく陰気な人物を想像していた。冥界という場所からの連想かも知れないし、ハデスは黒い服を好み、黒い髪をしていると聞いたからかも知れなかった。なんにせよ、あまり良いようには考えていない。だってまともだったら、冥界なんかに大人しくいるはずがないのだ。もし自分が冥界を治める羽目になっても、絶対に一日に一度は地上に出てくる、とヘルメスは思った。
冥界は、想像していた以上に暗い場所だった。どこもかしこも薄暗く、じめじめしている。時々遠くで羽音がしていたが、あれは死の神と眠りの神の羽音だろうか。
「気味が悪いな、早く帰ろう」
ぽちゃん、と水の落ちる音が響いて、ヘルメスは肩を震わせた。それから一目散に走り、ハデスのいる場所を目指した。ハデスがいるのは冥界の最深部だ。
走った足音が、存外に大きかったらしい。最深部に届く前、大きな扉の前に、人影があった。ぎょっとして立ち止まると、「珍しく死者でない者が訪れたと思ったら、君は……」と驚いたような顔をした青年がいた。
……この人がハデスなのか。ヘルメスは少し驚いて、思わず上から下までじろじろと見てしまった。噂どおり、黒い服を着ている。そして、髪は黒い。目は少し青みがかっているだろうか。派手ではないが、パーツの一つ一つは整っていて、とても誠実そうな顔立ちだった。考えてみれば、兄弟であるポセイドンやゼウスが美しい容姿をしているのだから、ハデスが不男である可能性は極めて低かった。けれども、冥界のマイナスイメージから勝手にさえない容姿を想像していたのだ。目の前の彼はとてもではないが、冥府の王には見えない。ヘルメス自身もオリュンポス山一の美形と褒め称えられていたが、それとはまた少し方向の違った美しさだ、とヘルメスは思った。
「あなたがハデスさまですか」
ひょっとして、と思って聞いたが、彼が黙って首を振ったのでやはり彼がハデスであることには間違いない。ヘルメスがそれでも動かないでいると、彼は「どうした?」と怪訝そうな顔をした。その声は、思いの外に低かったがとても落ち着いていた。
「あ、いえ。え、と、はじめまして。俺、じゃなかった僕はヘルメスと言います」
「ああ、聞いたことがあるよ。ゼウスの息子だろう? ヘラとの、ではない」
ハデスはちょっと眉を寄せると、「こちらへおいで」と手招きをした。彼のことを怖い人ではなさそうだと思いながらも、それでも先入観が消えず、少しばかりおっかなびっくりついていくと、ハデスは「そんなに恐れなくても、とって喰いはしないよ」と笑った。ハデスは大きな扉を開けると、「ここから先は、私の部屋なんだ」と言った。それまでの道は岩が剥き出しになっていたのだが、彼の部屋だという場所は、なるほど地面には絨毯が敷かれていた。その横には大きな椅子が一脚ある。それと、来客用らしき長椅子。それ以外の物は、あまりない。シンプルな部屋だと言えばそれまでだが、寂しいと言えばそうだった。
「あの、これ……ゼウスさまからのお手紙です。あと、これはヘラさまから」
「ああ、なるほど。君はそのために来たんだね。……花まで持ってきてくれたのか。嬉しいよ、ここには何もないから。ヘラには、礼を言っておいてくれないか」
ハデスはヘルメスから受け取った手紙を開くと、ざっと目を通した。そして、「少し待っていてくれるかい」とヘルメスに声を掛ける。
「返事を書くから。多分、そんなに時間はかからないと思う」
「あ、ええ、かまいませんけど」
「そうか、ありがとう」