大事なものは王冠の下
米と洪⇔普
[大事なものは王冠の下]
***
アメリカは、革手袋を外して古い木製のテーブルを撫でた。
人の手になじむまろみを帯びたテーブルの肌触りは心地よい。
キッチンでお湯が沸いたので、ハンガリーはお茶を入れに行った。
白いエプロンと若草色のワンピースがキッチンの奥でいそいそ動いている。
母か、あるいは姉か、そんな雰囲気を感じさせる親しみやすさだな、とアメリカは思った。
彼の国としての人生においては、女性の国家と親しくするようなことはあまり日常的ではなく
ゆえに、こうしてハンガリーの家に招かれて、2人きりで向かい合ってお茶をいただくなんていうのはちょっとした冒険だった。
「少し熱いから、気をつけて。お砂糖はこれよ」
アメリカと自分の席にコーヒーカップを置いて着席したハンガリーが、細かな模様の入った陶器の壺を差し出す。
プライベートなので無礼講で、と伝えたら彼女は快く親しげな言葉遣いに改めてくれた。
それがいっそう家族のような温かみを増しているのだろうか。
今日はそうやって油断している彼女を少し驚かせに来たのだけれど。
アメリカは笑顔を無理やり押し隠した。
「君はコーヒー党なんだね、よかったよ」
カップを引き寄せて砂糖を二杯コーヒーに入れ、かきまぜる。
「そう? イギリス君のところの紅茶も美味しいじゃない」
紅茶嫌いの理由を包み隠したオブラートを切り裂いてハンガリーが微笑んだ。
分かっていますよという含みのある微笑が、彼女の元夫であるオーストリアと似ている。
やだやだ、これだから大人は。
裏をかかれた気分。
子供扱いされた気がして、プライドが傷ついた。
微妙な年頃のアメリカは、この時点で用事をさっさと済まそうと決意した。
一口コーヒーをすすって、ろくに味わいもせずにカップを置くと、持参して来た包みをテーブルの上に出す。
「…あら、これは?」
シルクハットの箱ほどの大きさだが、アメリカがそれを持ってくる理由はない。
ハンガリーは翡翠色の目を瞬かせて首をかしげる。
亜麻色の髪がさらりと揺れた。
包みに向ける好奇の表情は少女めいている。
「聖イシュトヴァーンの王冠」
悪戯を仕掛ける気分で、慎重に、興奮しすぎないようにその単語を舌に乗せる。
ハンガリーの瞳にちかっと激しい光が通り過ぎた。
ロシアが彼女から奪った、彼女の王国時代の証。
これに手を触れられるのは世界にただ2人の人間――――王と、王に冠を授ける者。そしてハンガリーという国家しかいない。
包みを解いて、透明なアクリルケースの中に厳重に保管された聖冠を見せる。
「ロシアがずっと抱え込んでいたのを預かって、俺の家で調べたら君のだって言うから、持って来たんだ」
ハンガリーはうつむいて、コーヒーをスプーンでかきまわしている。
再び顔を上げると、先ほどの一瞬の表情が嘘のように、いつもの温和な顔に戻っていた。
「ありがとう、びっくりしたわ」
演技ではないのが肌で分かったので、アメリカは不愉快になった。
掴みかかるくらい取り乱してから、感謝の言葉を述べながらさめざめと涙してくれればよかったのに。
もう少し、執着してくれないと俺がつまらないもの(そういえば日本はよくそう言って手土産を持ってくる)を持ってきたみたいじゃないか。
口をあひるの形にとがらせてから、彼女に向き直ってぐいっと笑みの形にする。
「あれ、それだけかい? 俺は、タダで返すなんて一言も言ってないけど」
明るく言いきって、聖冠のケースに肘を乗せた。
「あら」
コーヒーカップを手に、ハンガリーがぱちくり瞬いた。
「じゃあ、悪いけど持って帰ってくれる?」
今度はアメリカが目を丸くした。
「ええっ!? 君、これ大事なものだろう!?」
「大事だけど、うち今お金ないし」
「だったら条件を譲歩してもいいんだよ!」
あれ、もう切り札を出しつくした気がする。
思わず目をそらしかけたアメリカの前で、ハンガリーはまた笑った。
「誇りを曲げたくないから、条件は聞かないわ。あなたの気が済む対価をきちんと支払えるまで、あずかっててちょうだい」
「へ…」
少ない手持ちの札を切り尽くしてぽかんと口を開けたアメリカの前で、ハンガリーはワンピースの胸を押さえる。
「私の一番大事なものは、ここにある」
緑の瞳は相変わらずのんびりと穏やかな光をたたえていて、揺れても乱れても時間を追うごとに静かに凪いでいく水面のようだった。
「俺が、これをどうするか分からないのにそんなこと言っていいのかい?」
「何をそんなに焦ってるの?」
ハンガリーの眉が吊り上がる。やっと、当初の筋書き通り取り乱してくれたようだ。
しかしそれは、思ったほど痛快ではなかった。
「焦ってる?」
乾いた唇で復唱する。
「聖イシュトヴァーンの王冠は大事なものよ? いつか戻ってくるなら、きっとみんなの支えになる」
ハンガリーは、冷めかけのコーヒーに湯を差して少し薄めるとシナモンを振った。
「でも、取り戻すために私の家の人に負担をかけるのは間違いだと思うの」
すっかり落ち着きを取り戻したハンガリーをほろ苦く見守ってから、アメリカも腰掛け直した。
穏やかだけど意志が弱いわけではない。
落ちついているけれどためらうわけでもない。
かつてのハンガリーが勇猛な戦士だったと聞いてもピンと来ないけれど、彼女の芯が自分の切り札では微塵もぶれなかったのは良く分かった。
「だから」
「私を試して自分を測るのはやめなさいよ?」
ハンガリーが少し視線に力を込めてアメリカを見る。
姉にたしなめられているような距離感。
「焦ってるとか試すとか、人聞きが悪いなあ」
苦笑して見せると、片方だけ眉を跳ね上げてじろっとにらまれた。
「アメリカ、あなた自信がないんでしょう」
「…はぁ?」
今度こそアメリカは返す言葉もなく口を開けた。
天下のアメリカ合衆国に向かって、借金まみれの一国家が何を言い出すのか。
的外れすぎる指摘に顎が外れかけた。
そうか、彼女の尺度だと俺はそういう子供だと決めつけられているのか。
不愉快さはしばらく後から湧きだしてきて、そうなると気分は俄然不愉快一色になった。
「冗談にしては随分的外れだ。せめて笑いどころがどこかアンダーラインでも引いておくれよ」
肩をすくめるジェスチャーに、ハンガリーが静かにカップを置いた。
「私が、あんたに食ってかかったら、ちょっとは気が済んだんでしょうけど…それだけの対価で受け取るにはあまりにも申し訳ないとは思ったのよ?」
椅子を引いて席を立つとアメリカをじっと見る。
「あんたには、明確に見える芯がない。民族も、宗教も、思想も理想もバラバラで、芯と呼ぶにはあまりにも一つ一つが小さくて。…だから、一つの民族、一つの価値観、一つの意志でまとまった国を、揺さぶってみたくなるんだわ」
ハンガリーの声の揺るぎなさに気押されて、アメリカは一瞬口応えするのにためらった。
背筋にぞわりと実感が湧く。
確かにそうだったかもしれない。
彼女が怒るなら、怒る彼女を理解できたなら、その価値観が自分の芯に取り入れられないだろうか。
[大事なものは王冠の下]
***
アメリカは、革手袋を外して古い木製のテーブルを撫でた。
人の手になじむまろみを帯びたテーブルの肌触りは心地よい。
キッチンでお湯が沸いたので、ハンガリーはお茶を入れに行った。
白いエプロンと若草色のワンピースがキッチンの奥でいそいそ動いている。
母か、あるいは姉か、そんな雰囲気を感じさせる親しみやすさだな、とアメリカは思った。
彼の国としての人生においては、女性の国家と親しくするようなことはあまり日常的ではなく
ゆえに、こうしてハンガリーの家に招かれて、2人きりで向かい合ってお茶をいただくなんていうのはちょっとした冒険だった。
「少し熱いから、気をつけて。お砂糖はこれよ」
アメリカと自分の席にコーヒーカップを置いて着席したハンガリーが、細かな模様の入った陶器の壺を差し出す。
プライベートなので無礼講で、と伝えたら彼女は快く親しげな言葉遣いに改めてくれた。
それがいっそう家族のような温かみを増しているのだろうか。
今日はそうやって油断している彼女を少し驚かせに来たのだけれど。
アメリカは笑顔を無理やり押し隠した。
「君はコーヒー党なんだね、よかったよ」
カップを引き寄せて砂糖を二杯コーヒーに入れ、かきまぜる。
「そう? イギリス君のところの紅茶も美味しいじゃない」
紅茶嫌いの理由を包み隠したオブラートを切り裂いてハンガリーが微笑んだ。
分かっていますよという含みのある微笑が、彼女の元夫であるオーストリアと似ている。
やだやだ、これだから大人は。
裏をかかれた気分。
子供扱いされた気がして、プライドが傷ついた。
微妙な年頃のアメリカは、この時点で用事をさっさと済まそうと決意した。
一口コーヒーをすすって、ろくに味わいもせずにカップを置くと、持参して来た包みをテーブルの上に出す。
「…あら、これは?」
シルクハットの箱ほどの大きさだが、アメリカがそれを持ってくる理由はない。
ハンガリーは翡翠色の目を瞬かせて首をかしげる。
亜麻色の髪がさらりと揺れた。
包みに向ける好奇の表情は少女めいている。
「聖イシュトヴァーンの王冠」
悪戯を仕掛ける気分で、慎重に、興奮しすぎないようにその単語を舌に乗せる。
ハンガリーの瞳にちかっと激しい光が通り過ぎた。
ロシアが彼女から奪った、彼女の王国時代の証。
これに手を触れられるのは世界にただ2人の人間――――王と、王に冠を授ける者。そしてハンガリーという国家しかいない。
包みを解いて、透明なアクリルケースの中に厳重に保管された聖冠を見せる。
「ロシアがずっと抱え込んでいたのを預かって、俺の家で調べたら君のだって言うから、持って来たんだ」
ハンガリーはうつむいて、コーヒーをスプーンでかきまわしている。
再び顔を上げると、先ほどの一瞬の表情が嘘のように、いつもの温和な顔に戻っていた。
「ありがとう、びっくりしたわ」
演技ではないのが肌で分かったので、アメリカは不愉快になった。
掴みかかるくらい取り乱してから、感謝の言葉を述べながらさめざめと涙してくれればよかったのに。
もう少し、執着してくれないと俺がつまらないもの(そういえば日本はよくそう言って手土産を持ってくる)を持ってきたみたいじゃないか。
口をあひるの形にとがらせてから、彼女に向き直ってぐいっと笑みの形にする。
「あれ、それだけかい? 俺は、タダで返すなんて一言も言ってないけど」
明るく言いきって、聖冠のケースに肘を乗せた。
「あら」
コーヒーカップを手に、ハンガリーがぱちくり瞬いた。
「じゃあ、悪いけど持って帰ってくれる?」
今度はアメリカが目を丸くした。
「ええっ!? 君、これ大事なものだろう!?」
「大事だけど、うち今お金ないし」
「だったら条件を譲歩してもいいんだよ!」
あれ、もう切り札を出しつくした気がする。
思わず目をそらしかけたアメリカの前で、ハンガリーはまた笑った。
「誇りを曲げたくないから、条件は聞かないわ。あなたの気が済む対価をきちんと支払えるまで、あずかっててちょうだい」
「へ…」
少ない手持ちの札を切り尽くしてぽかんと口を開けたアメリカの前で、ハンガリーはワンピースの胸を押さえる。
「私の一番大事なものは、ここにある」
緑の瞳は相変わらずのんびりと穏やかな光をたたえていて、揺れても乱れても時間を追うごとに静かに凪いでいく水面のようだった。
「俺が、これをどうするか分からないのにそんなこと言っていいのかい?」
「何をそんなに焦ってるの?」
ハンガリーの眉が吊り上がる。やっと、当初の筋書き通り取り乱してくれたようだ。
しかしそれは、思ったほど痛快ではなかった。
「焦ってる?」
乾いた唇で復唱する。
「聖イシュトヴァーンの王冠は大事なものよ? いつか戻ってくるなら、きっとみんなの支えになる」
ハンガリーは、冷めかけのコーヒーに湯を差して少し薄めるとシナモンを振った。
「でも、取り戻すために私の家の人に負担をかけるのは間違いだと思うの」
すっかり落ち着きを取り戻したハンガリーをほろ苦く見守ってから、アメリカも腰掛け直した。
穏やかだけど意志が弱いわけではない。
落ちついているけれどためらうわけでもない。
かつてのハンガリーが勇猛な戦士だったと聞いてもピンと来ないけれど、彼女の芯が自分の切り札では微塵もぶれなかったのは良く分かった。
「だから」
「私を試して自分を測るのはやめなさいよ?」
ハンガリーが少し視線に力を込めてアメリカを見る。
姉にたしなめられているような距離感。
「焦ってるとか試すとか、人聞きが悪いなあ」
苦笑して見せると、片方だけ眉を跳ね上げてじろっとにらまれた。
「アメリカ、あなた自信がないんでしょう」
「…はぁ?」
今度こそアメリカは返す言葉もなく口を開けた。
天下のアメリカ合衆国に向かって、借金まみれの一国家が何を言い出すのか。
的外れすぎる指摘に顎が外れかけた。
そうか、彼女の尺度だと俺はそういう子供だと決めつけられているのか。
不愉快さはしばらく後から湧きだしてきて、そうなると気分は俄然不愉快一色になった。
「冗談にしては随分的外れだ。せめて笑いどころがどこかアンダーラインでも引いておくれよ」
肩をすくめるジェスチャーに、ハンガリーが静かにカップを置いた。
「私が、あんたに食ってかかったら、ちょっとは気が済んだんでしょうけど…それだけの対価で受け取るにはあまりにも申し訳ないとは思ったのよ?」
椅子を引いて席を立つとアメリカをじっと見る。
「あんたには、明確に見える芯がない。民族も、宗教も、思想も理想もバラバラで、芯と呼ぶにはあまりにも一つ一つが小さくて。…だから、一つの民族、一つの価値観、一つの意志でまとまった国を、揺さぶってみたくなるんだわ」
ハンガリーの声の揺るぎなさに気押されて、アメリカは一瞬口応えするのにためらった。
背筋にぞわりと実感が湧く。
確かにそうだったかもしれない。
彼女が怒るなら、怒る彼女を理解できたなら、その価値観が自分の芯に取り入れられないだろうか。
作品名:大事なものは王冠の下 作家名:佐野田鳴海