情死、
はじまりは一目惚れだった。
そのひとはとても美しかった。その顔はもう、覚えてはいないのだけれど、とにかく、ひどく綺麗な顔だったことだけは覚えている。良いな、と、思った。欲しいな、と。顔とか、心とか、そーゆうものではなくて、ただひたすら純粋に、それが欲しくなったのだ。ずう、と、胸の奥深くにちいさくくすぶっていた、何かしらの、咽の渇きのような、渇望、心。じみたものが、ひっそりと、ゆったりと、至極緩慢に、けれど確かに、ちらと顔を覗かせていたのである。そしてそれは、きっと、手に入れば、埋まるような。それを手にすれば、潤うような。なぜかもはや本能のように、そう感じていた。
しかしそれは全くの見当違いだった。穴のような、黒々とした渇きが、次第に酷くなってゆくのが判った。焦燥感は止まない。むしろ、みるみる加速してゆくのだ。俺が別段、モーションをかけずとも、それと察したそのひとは、向こうから近寄ってきてしまった。手に入れば、直ぐに冷めた。飽きたので、そのひとを捨てた。なんの感慨も沸かずに。きちんと客観視すれば、とりたて魅力のある人間でもなく、どうしてこんな人間を好いたのか、些か疑問であった。
咽の渇きは日に日に強まるばかりだ。色んな人間と寝た。抱いたし、抱かれた。けれどちっとも満たされず。空洞は今や化け物のように、ぽかん口をおっきく開けて、悠々ととぐろを巻いて鎮座するのだ。もっと、もっと、もっとと。欲望は際限がない。埋まらない、穴に、なにかを突っ込んでいたくて、空っぽは嫌だから。ただそれだけで。
ぼんやり処理をしながら、どこか他人事のように思い出す。ごしごしと、さっきまで死体が浮いていた浴槽を丁寧に洗ってゆく。ちょっとでもそいつの細胞、たとえ一片のみが残ろうとも、そんな中に自らの肉体を浸すのはまっぴら御免だった。泡に埋まるバスタブは、どこか現実離れしている。はて、さて。もう、どのくらいだろうか。こうやって後処理をするのは。はた。と、考えてみても、片手じゃ足りないのは明確だ。もしかしたら、両手でも足りないのかも。
空虚感は肥大して、いよいよ今では、すっかり頭の可笑しくなってしまった。いや未だじぶんでそれが判っているから良いのだけれど、そのうち、それすらも覚束なくなるかも知れない。なんだかなあ、と、しかし呑気に吐息を漏らした。追いかけているうちは良いのに、と思う。そのひとを求めて、欲して、駆けて行っているうちは良いのだけれど、いざそのひとが振り向けば、途端に冷めてしまう妙な性質。それも、じぶんではどうしようもないのだから仕方がない。まるで、脳味噌に直接冷水をぶっ掛けられたようなきぶんになるのだ。そして思う、俺は何故こんなものが好きなのか、と。
それはまるで警鐘にも似た感覚だった。違う、違う、こいつじゃない。ぐあんぐあんと脳内で、そんな金切り声が聴こえる気さえする。しかしそれも、違う誰かにお熱になれば、途端にだんまりを決め込んで、ひっそりと息を潜めるのだから厄介だ。じぶんの頭の中なのに、よく、判らない。そして更に厄介なことは、そのターゲットが振り向かなければ、更に、それこそ、命まで欲しくなることである。
最初は、確か、渋いロマンスグレーの伯父様だったように思う。その頃の俺は、頭のてっぺんから爪先まで、すっかりそのひとに染まっていてしまって、もうどうにもこうにも拉致のあかない状態だった。そして更に悪いことには、そのひとには妻子が居て、当時高校生の俺なんか見向きもしない。その上、別に男色でもなく、至って普通の、所謂ノンケと呼ばれる人種だったのだ。しかしそんなこと、そのときの俺には大した問題ではなかった。欲しい。それが、欲しい。と、ただひたすらにそれのみだった。
そして気付いたら、俺の手はそのひとの首を締めていて。青白くなった顔に、ひどい吐気を感じたのを覚えている。何がなんだか判らずに、夢中で走って走って走って、どうしてだか、学校の屋上まで来てしまっていた。なにも判らず、ただ、困惑と焦りでどうしようもなかった。ほんとうに、何が起きたのだろうと思った。階段を駆け上がるのに疲れて、もう、屋上に入る気力もなく。そのままそこで、しばらく泣き続けていた。みっともなく、惨めたらしく、そんな風に泣いたのは、それが初めてのことだった。
ふ、と。ひとの気配を感じて顔を上げると、俺にしてはとても珍しい、嫌っている人間がそこにはいた。そのころには涙も枯れ果てて、何故だか、不思議な、満ち足りたきぶんになった。口角が吊り上がって、唇の歪みを止められなかった。もう、どうでも良かったのだ。
あれ俺、なんで悲しかったんだっけか。