【腐】枯渇SOS
身体の不調に対する自覚は持っているつもりだった。喉の痛みはここ数日引き摺っていたし、昨日あたりから咳も出始めていた。それでも、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせて、多少の無茶をした覚えも確かにあった。
要するに自業自得なのだから、朝、定時の数刻前に現れた波江に、貴方の体調管理はどうなってるのかしら? 等とキツい言葉を投げかけられても、臨也は言い訳のしようがなかった。ちなみにその波江は、書類の整理だけをして帰ってもらった。彼女に風邪を移すわけにもいかないだろう。
頭がやけに重く痛む。全身を支配する倦怠感に心地良さは欠片も存在せず、ただただ不快だった。数日経てば治るだろうと踏んでいた喉はついに扁桃腺が腫れ上がってしまったのだろう。明らかな風邪の症状、加えて発熱している。だが、臨也は体温計を探すことはしなかった。具体的な数値を見る事によって症状が悪化しそうな気がしたからだ。
そういえば、体調管理も仕事のうちだといつか新羅に忠告された気もする。とはいえそういう新羅自身も自分の事となると驚く程に無頓着なのだから、彼はあまり人の事を言えないし、それを決して本人に言う事はないだろうなと、ぼんやりとした思考の隅で臨也は微睡んでいた。
少しでも眠りたいのに、眠ってしまえばこの不快感からも解放されるとわかっているのに寝付けない。日頃の不規則な生活が、こんなところで支障を来すことになるとは。今度からはもう少し早く寝るように心がけよう。一瞬そんな事を考えて、臨也は緩く首を振った。健康的な規則正しい人間らしい生活など、今の自分にとってこれほど不要なものはないのだから。
人並みな幸せなど望めない。望むつもりもないし、想像がつかない。人間が好きで、好きで好きでたまらないのに、臨也は自分自身を愛する事ができないでいる。それなりに金もある、女に困ることもない、何ひとつ不自由ない生活。それなのに、この渇いた心はいつまでも渇いたままだ。
——俺は、いつまで彷徨い続けたらいいのだろう……?
静かすぎる部屋に携帯の着信音が響いた。普段使用している所謂仕事用のものからではなく、プライベートでごくたまに使用している古い携帯電話から、電子音は発せられていた。
軋む身体をなんとか起こして、サイドボードに放置されていた携帯を掴む。この携帯にかけてくる人物は、臨也の記憶が正しければひとりしかいない。
正直、出るのが億劫だった。そもそも、何故、このタイミングなのか。今更何を話すというのか。相手の方から自分への用事などあるはずもなく、強いて言えば殺人予告だろうか。一瞬、無意識のうちに電源ボタンに伸びかけた指をどうにか引き戻して、臨也は通話ボタンを押した。
『……臨也か?』
受話口からは聞き慣れない男の声。しかし聞き慣れない理由はすぐにわかった。
いつだって、男とは直接対峙してきた。電話で話す事など滅多になく、そもそも男からすれば互いの番号を知っている事が許しがたいことだと思われているかもしれない。ちなみに、それぞれの携帯に番号を登録したのは新羅だ。高校時代の悪戯の、名残である。
「まだ、覚えてたんだ……この番号」
『手前が電話に出なかったら、消すつもりだったのによぉ』
「……わざわざ確認するんだ。シズちゃんらしいよ」
電話越しだからだろうか、静雄の声はいつになく怒気を感じない。いつもの詭弁を振るう気が起きないのは、熱の所為かそれとも静雄の所為か。恐らく、両方だろう。
「ねえ、シズちゃん……俺が、嫌い?」
『今更確認する事じゃねえだろ、んなモン』
「嫌い、だよね……そうだよね。だって、俺は、シズちゃんから色んなものを奪ったんだもんね……楽しいはずの高校生活も、あの初恋の子も、全部、俺が壊したんだもん」
自分でも何が言いたいのか判らない。ただ、静雄の声を聴いていたかった。彼の用件はもう済んでいるのに、引き止めているのは自分だ。
頼りない電波の向こう側に、人恋しさを求めているのかもしれない。決して認めたくはないが、静雄の声にどこか安心感を抱いている。熱の所為だと、無理やり結論付けるしか、臨也は方法を知らないでいた。
渇いてヒビが入り始めたそこに、気づかないフリをすることでしか、自分の心を保てない。
『何が言いたいんだ、手前』
「……嫌いだって、さっさとくたばれこのノミ蟲野郎って、言ってよ……俺は、シズちゃんと違って、人間らしく日常に生きる事はできない、人並みな幸せを望んじゃいけないんだ……」
静雄との決定的な違いは、他人に愛されるか、そして自分自身を愛せるか、他にも細かく挙げればキリがないが、大体はこのふたつに尽きる。静雄の周囲に人が集まっているのは判っていた。彼は、努力次第で人間になれることを知ってしまった。理解するよりも先に、心がバラバラに壊れてしまうかのような錯覚を覚えたのだ。
もう、自分は戻れないところにいるというのに——
興奮からか呼吸が細く荒くなっていく。崩れ始めた心のバランスを、もはや無理やりに保とうとするのを臨也は止めた。どうせ苦しいなら、全部吐き出してしまったほうがマシだった。
「シズちゃん……俺は、ずっと、シズちゃんだけは愛せなかった。俺の愛する人間というカテゴライズに、君だけは当て嵌めたくなかったんだ……っ、俺は……!」
『臨也?』
喉の奥深いところが痛い。うまく、息が吸えないでいる。
どうして、電話越しでこんな事を喋っているのだろう。どうして、こんなに息をするのが苦しいのだろう。どうして、今この瞬間静雄は目の前にいないのだろう——
「ッ……ごめん、今の、忘れて……番号、あとでちゃんと消しといてよ?」
『おい、待てよ、臨也!』
「……声……聴けてよかった……」
静雄の返事を待たずに、臨也は携帯を閉じた。そして、ふつりと糸が切れたように、そのまま深い眠りへと落ちていった。