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ジャスミンとローズヒップ

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「それで俺に用ってなに?」
「うん……実はね、滝沢亮司の連絡先を教えてほしいんだ」
 単刀直入に言うと、想定外の内容だったのだろう、時任はキョトンとした表情で、
「滝さん?」
と繰り返した。
「そう、この間きみと一緒にいたよね? 志村を捕まえたときのことだけど」
「あのときはちょっと手伝ってもらって……って、新木さん何で滝さんのこと知ってんだよ。会いたいって、なんで……」
 それまで新木のことなど欠片も警戒していなかった時任が、初めて眉を顰めた。納得のいかないことには答えられない、という顔だ。彼の中で既に滝沢は身内の範疇なのかもしれない。
 特に隠すつもりはなかったから、聞かれたことには正直に答えることにする。
「滝沢亮司は『邂幸の牙』の教祖的存在だった女の身内だろう。当時、資料で顔写真も見た。だからすぐわかったよ」
「でも、じゃあ、その資料とやらを見りゃ連絡先なんて一発でわかんじゃねえの?」
「そうだね。極秘ファイルって訳じゃない。調べようと思えば簡単に住所も電話番号もわかると思うよ」
「……じゃあなんでわざわざ俺に聞くんだよ」
 信じていた……というよりは、まったくノーマークの人間から攻撃を受けた気分なのだろう。時任はすっかり食べることを忘れて、上目遣いに新木を睨んでいる。
 食事が覚める前に誤解を解いた方がいいだろう。新木はニコリと笑って首を横に振った。
「君が考えてるような理由じゃないよ。だってね、捜査資料から連絡先を割り出していいのは、相手が事件の容疑者や関係者である場合だけだろう?」
「……はあ?」
「今回はどんな事件とも無関係な状態で彼に会いたいんだ。お礼を言いたいんだよ」
「お、礼……ってなんで」
「……救急車を、呼んでもらったんだ」
「きゅう、きゅうしゃ――?」




 あの時、「救急車とパトカーどっち呼ぶ?」と聞かれて、咄嗟に答えたのはパトカーの方だった。当然のことだ。こんな程度の怪我で捜査から抜けるわけにはいかない。せめて状況を報告するのが義務だろう。
 携帯電話さえ無事なら自分で署に連絡を入れるところだが、上から落ちてきた志村は新木の骨ばかりでなくケイタイにも大きなヒビを入れてくれていたのだった。
 滝沢は「ふうん」と呟きを漏らすと、何故か110番ではなく119番に電話をかけ、手際よく救急車の手配をしてしまった。
「オイ!」
「あのさあ刑事さん、俺もね、それなりにいろんな修羅場見てきたから少しは目が利くんで言うんだけど、それ多分ヒビ入ってるよ」
「――え?」
「お仲間に報告もいいけど、早めに病院行った方がいいんじゃないかなあ。どうせあのオッサンの方は、今ごろトッキーが捕まえてふん縛ってるって」
 ね? と宥めるように顔を覗き込まれた。新木は唖然として資料の写真と同じ顔を見上げる。
「お前――なに言って」
「だいじょーぶだってば。もう一人刑事さんいたじゃない。まかせちゃいなよ。あんまり必死になると息切れしちゃうでしょ。俺たちみたいな凡人は、ゆっくり地道に行きましょうや」


 まるで、催眠術にでもかけられているかのようだった。優しく諭される言葉に、気付けばこくりと頷いていた。さすがは三ツ橋佳代の弟というところか。人の欲しがる言葉をよく知っている。
 結局新木は、報告を後回しに病院へ行って、後でこっぴどく叱られた。それでもあのときはああして良かったのだと思っている。疲れていたのだ。心も身体も。今年の事件は今年の内に――なんて、署内に掛けてあった標語に少し踊らされていたのかもしれない。



 目を丸くしたままの時任に、新木は照れたように笑ってみせた。
「声がね、とてもやさしくて。本当はあの場を離れてはいけなかったんだけど、気が付いたら救急車に乗ってた」
「へえ…」
「あのとき、彼が何か目的があってのことだったのか単なる親切心からの言葉だったのかはわからない。でも、素早く治療したおかげでホラ、もう復帰出来るくらいに治りが早くてね。そのことだけでもありがとうを伝えたいんだ」
「……そっか」
 わかった、と頷いた時任が何気なく窓の外に視線を巡らせる。とたんに彼は顔を蹙めた。
「げ」
「ん? どうかしたかい」
「あいつ…傘もささねーで何やってんだ!」
 2階席から見下ろす外界には、長身の腕にコートを掛けて、こちらを見上げている久保田誠人の姿があった。眼鏡の奥の瞳は曇って見えない。雪の中を幻のように佇んでいる。
 時任が慌てて立ち上がった。
「ごめん新木さん、俺もう行くわ。よかったらそれ残り食っちゃって!」
「あれ。怒ってたのはもういいの?」
「……新木さんの甘ったるい話聞いてたら、なんか気がそがれた。しょうがねえから許してやることにする」
「甘ったるいって……。ああでもそれじゃ俺、久保田君に一コ貸しだ」
 ふと呟くと、何故か時任が軽く吹き出した。
「伝えとく。じゃあ滝さんのケー番、俺もケイタイ見ないとわかんないから後で連絡するわ」
「うん。ありがとう、待ってるよ」
 飲み干したスープの器だけをトレイから持ち上げて、時任は足早に立ち去った。二人でいるときは全てを久保田に任せているのに、一人のときは意外と礼儀作法はきちんとしているようだった。
 階下にもう一度視線を落とすと、久保田が新木に向かって片手を上げて小さく頭を下げた。時任の姿が消えたことで、彼を解放したと知れたのだろう。
 というか、何故ここがわかったのか、それが疑問だ。あまり探し回ったようには見えないということは、密かに尾行されていたのかもしれない。
 そして居場所を知っていても主の許可が出ない限り他人との密会に踏み込んでこないあたりが、どこまでも忠犬だなと思う。
 新木も、この距離ではわからないだろうがうっすらと微笑んで手を振り返した。

 そうこうするうちに、店から飛び出した時任が、さきほどよりも荒い手つきで久保田の雪を払いはじめた。久保田はその肩に持っていたコートをそうっと掛けている。

「……まったく。あてられたのはこっちだと思うけど」
 苦笑して視線を外した。久保田も時任もすでに新木の存在など忘れているだろうが、見ているこちらは背中がむず痒くて溜まらない。
 それにしても、恐ろしいとしか思えなかった久保田相手に一コ貸しなんて、まるで普通の友人関係の台詞だなと思うと何だかおかしい。
 彼らを知る前の自分だったら、おそらく滝沢の差し伸べた手を取ることは決してなかっただろう。
 この変化は――案外悪くないのではないかと思う。



 過酷な現実を生きる彼らに、交わることはできないしそうしたいと思ったこともない。
 ただ、せめて彼らが少しでも長く寄り添って歩けるよう、凡人の自分が出来るのはただ祈ることだけだ。それが精一杯の謝礼だと思う。彼らが新木に望むことは何もないだろうから。

 変化をもたらしてくれた人たちに、感謝をこめて――。