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相模花時@桜人優
相模花時@桜人優
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黄昏の海

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竹林を抜けて崖沿いを歩く。背負われた籠の揺れに海を感じて目をつむれば、渓谷の景色は石壁に代わり、竹の匂いは太陽の香りがする布に変わる。天井の紅は鈍い色をしていて、それはまさしく血が塗りたくられているようだった。
 冷たい石畳に火照った素足。反発し合う温度を何度味わい、何度喜んだか。この感覚は、この家にいるという証で、諸々の憂いは土の中へ消えていく。ただ一つの中国の家という名の孤島。
 人間が安易に来ない地で、中国は邸を構え暮らしていた。訪れるとしたら、彼と同じ存在の者たちだが、それも数が限られた相手のみである。だから、港まで自分を迎えに来、揺り籠で眠ることは特別なのだと思っていた。
 土が揺れ、海が揺れ、二つの奥底に眠れるのは永遠だと信じていた。
「中国さん」
 何もかもが日本より大きい調度品の間をすり抜けて、台所に顔を出して名を呼ぶが、件の人は出かけているのか見当たらない。勝手に着替えさせられて纏う青い服、裾を翻しながら書斎、居間、庭を廻り、呆然と服より薄い色の空を見上げて肩を落とす。
 裏山だろうかと首を廻らせるけれども、玄関は日本の届かない位置に鍵が掛かっていて出られない。庭の生け垣をちらりと見て、服を見て、日本は出来るだけ汚ごさない様に、四つん這いになって狭い道なき道をくぐり抜けた。外は家の中と変わらない空気だが、赤は消え失せ、変わりに緑と金が降り注ぐ風景に、日本は感嘆し、裏山の竹林に足を向けた。
 風が揺らす笹の葉音、緑から零れ落ちる光と影、脈を持った大地に通り抜ける情景は、故郷の森よりも柔らかく、まるで中国の様だと日本は想っていた。それが彼の全てである、と。
 払っても払っても落ちない、青の中に擦り込まれた土色は、繊維に深く入り込んで洗濯しても落ちそうにない。せっかく着せてもらった服を台無しにしてしまって、日本は眼がしらが熱くなるのを感じる。
 首を横に振るけれども、取れない熱さを緑色の空を見上げる事で乾かそうとした。葉の間が光り輝き、日本の顔に太陽を落とす。風が吹けば涼しく、光の狭間にいれば暖かい。それはまさしく人の温もりだ。
 小さい日本は、零れる前の涙を袖口で拭って前を見る。国特有の気配がする方へ足を進めるけれど、一、二歩と歩んだ所で景色は変わらず、中国の所まで、遠く感じた。
 まだ弱い自分だけれども、いつかは中国のように暖かい人になれればいい。そして今度は自分が抱きしめる番であると幼い日本は心に決めて、早く大きく強くなりたいと願う。その願いごとは、多くの人間と年月を超えて約束された未来のはずだった。


   *   *   *


「随分と早いあるね」
 船を降り、三時間ぶりの大地を踏みしめた感動の余韻を感じる暇もなく、掛けられた声に日本は顔を上げて、出迎えてくれた中国を見た。
「お久しぶりです、中国さん」
 潮の匂いがする港まで、中国が迎えにくることは珍しい。関心して「珍しいですね」と口に出してしまう。
「暇だったある」
 それだけ言うと踵を返し、そそくさと人混みに紛れこんでしまい、慌てて日本は追いかけた。
 小さなケースを片手に、遠目から見ても鮮やかな朱のチャイナ服を追って雑踏を抜けると、アスファルトで舗装していない脇道に、するりと入り込んでいくではないか。
「中国さん!」
 待ってください、という言葉も空しく、どんどん進んでいく中国の背は遠い。
「早く来るある」
 砂利道の坂を慣れた風に深緑の中に消えていく朱は、昔よりずっと遠くに感じ、もう届かないのだと思ってしまう。
 足元が覚束ないまま坂を登り切り、少し開けた所に出る。すでに中国の姿はないが、見回せばなんとなく分かる国の気配に、右手の竹林に入ったのだろうと決めて道なき道を、無造作に生えた草木を手で押しのけながら進んだ。
 風がさらさらと笹の葉音を鳴らして、ふと手を見る。笹の間から零れる光を受け取る掌は、草木を押しのけたせいで茶色く汚れ、気になってハンカチを内ポケットから取り出して拭けば簡単に取れた。この日のための卸したてのスーツのズボンも汚れていたけれども、グレーの生地に土色は目立たない。
 中国の家に着いたら水道を貸してもらおうと決めて、前を見た。もう中国の姿はない。ただ白と黒と緑のコントラストがゆらゆらと波をうっているだけだ。
 この奥に中国はいるだろう。その気配はちゃんと分かる。距離は分からないが、もしかしたら次の瞬間には、そこの藪から顔を出して「何してるあるか」と籠を背負った中国が出てきそうで、
「ああ、ここ似ているんですね」
 幼い頃、毎日のように中国の家に行っていた時のことだ。あんな立派な港も、街も人もいなかったけれど、きっとあんな坂を何度も越え、竹林をくぐって彼の家に来ていたのだ。いつも籠の中で寝てしまっていたけれども。
 日本は、中国が迎えに来る前に歩きだした。おそらくあと少しで着くはずだ。大きくなった頃は何も気にしていなかった。最後に来た時は夜であったから、何も感じないまま一心不乱に歩いていた。
「何しているあるよ」
「うわあっ」
 ひょっこりと目の前に躍り出た中国に、日本は驚いてケースを抱きしめる。
「また迷子になる気あるか」
 溜息を吐き、足元の草木を踏みつぶしながら中国が道を作ってくれる。
「お引っ越しなされたんですね」
「・・・・・・前は、街に近すぎてうるさかったある」
 今の上司に我儘言って、山一個もらったある、と付け加えて中国は日本を顎でしゃくる。作られた道を通り少し歩けば見た事のある紅の漆喰の壁が目に入った。
「ふふん、今は調子がいいあるから、山のついでに家もオーダーメイドってやつあるよ」
 自慢そうに笑う中国は、足早に木製の扉を開けて日本を手招きすると、日本を上から下とじっくり見て、
「山歩きにスーツ着てくんなある」
 ちょっと待っているよろし、と奥に消えようとするが、
「あ、お水を貸していただければ」
「招待したのは我ある」
 慌てた日本の声で振り返るが、口を尖らせて一言だけ吐くと有無を言われる前に、また消えてしまった。
 呆然と玄関に立っているのもなんだと思い、歩くと良い匂いがしてくる。匂いのする方へ歩けばキッチンとリビングが、牡丹柄の黒の衝立で仕切られていた。台所にもテーブルにも美味しそうな料理が並べられていて、口の中に唾液が溢れ出すのが分かる。
「あ、コラ。そんな姿で入いんなある。着替え用意してやったから、あっちで着替えてくるよろし」
 青――緑の服を差しだした。
「いえ、大丈夫です。拭けば何とか」
「遠慮すんなある。これなら汚しても構わないある」
 引く気のない中国に押し倒されて、受け取ると、
「日本、着替えたらテラスにくるよろし。そこで食べるね」
 カチャカチャと食器の音がして、何度か日本が着替える部屋を行ったり来たりする中国を見ながら、スーツを脱いで簡易のハンガーに引っ掛ける。上も下も脱いで、白のシルクのズボンに深緑色の上を着た。ズボンの裾が短いのを気にしなければサイズはぴったりだ。
「着替えたあるかー」
作品名:黄昏の海 作家名:相模花時@桜人優