黄昏の海
早く来るよろしー、と聞こえて「はーい」と答える。荷物は置いて行ってもいいだろう。部屋を出て右に真っ直ぐ突き当りをまた右に曲がれば、数時間前に聞いていた音が耳につく。
紅の柱と白の壁を抜けた先は、群青の海が広がっていた。
「どうあるか?」
テーブルに料理を並べながら笑う中国を視界の端に、空色と群青の境界線が目に痛い。早く座るよ、と椅子を引いてくれていると云うのに日本は動けなかった。そんな日本の心を知らず、中国は先ほどと同じように上から下へ舐めまわすように見ると、首を傾げる。
「我のお下がりあるが、気にいらなかったね? よくお前が着ていた色と同じあるよ?」
「え、あ、ああ、そうですね」
やっと戻ってきた日本が、服を見ながら言う。中国の服なのかと思いながら、やっとのこと椅子に座った。
「自由に食べるよろし。海を見ながらなんて乙ある」
お腹がすいていたのか、次々と手を付け始める中国を見ながら、日本の食事は、あまり進まなかった。波の音が耳に付き、そして中国の後ろにある大きな甕に生える竹の葉音が、料理よりも酒の速度を速めて、早々に意識が虚ろになってしまった。
一人で現状を楽しそうに喋っていた中国も、頭を抱え始めた日本と、その周りに並ぶ自分の分の酒を見て驚く。
「あー料理と一緒に食べないと駄目ある」
そんなことを言っても日本は酔ってしまっているだろう。
「・・・・・・どうして」
「え? 何か言ったあるか? とにかく休むよろし」
客間は遠いが、幸いにも中国自身の部屋が近くにある。日本なら良いかと思って、肩に手を掛けて持ち上げた。見た目とは裏腹の引き締まった腕と肩に、一瞬胸が高鳴った。
「ほ、ほら、我のベッド貸してやるから」
うち消す様に声を掛けながら引っ張っていく。昔なら簡単に背負えた事を思い出して、部屋の前に付く頃には喋ることもなくなってしまっていた。
いつもより遠く感じた自室の扉を足で開けて、日本をベッドに下ろすと水を持ってこようと立ち上がる。目が醒めれば一番初めに欲しがるだろうし、そんなことを思って逃げ出そうとした中国の服を、日本が引っ張った。
「どっ、どうしたある」
「・・・・・・どうして」
またその言葉あるか、何か言おうとしている日本の顔に耳を近づけて、何を言わんとしているのか聞き取ろうとすると、日本は顔を自らの腕で覆い隠して鼻を啜る。
「日本、お前、泣いてるあるか」
「・・・・・・どうして、海の近く」
ぽつりと呟かれた言葉を聞き取って目を瞬かせた。
「え、どうしてって」
ただ景色が良かったのと、波音が気持ちよかったからだ。かなり昔に住んでいた所も耳を澄ませば波音が聞こえる様な所だった。そう、ちょうど日本と国交を持った頃だ。
「・・・・・・」
押し黙ってしまった中国に、日本は腕をあげて潤む漆黒を向ける。薄暗い部屋の中でも光り輝く瞳に、いつもの日本と違うのを感じて、中国は更に言葉を失くす。
「服、だって、汚したらどうするんですか」
「・・・・・・意味、わかんねーある」
洗えば落ちるあるよ、と呟くと、裾を握る日本の手が強くなる。
「波音が」
「それが何ある。昔と変わんねーある」
「・・・・・・」
日本の目尻から、水滴が一つ流れ落ちた。
「眠るよろし」
悪酔いしすぎね、と額をくっ付けて寝る様に言う。
「むかしと、違うんです」
小さい頃に聞いた、中国の籠の中で聞いた波音とは違う音が、この屋敷には溢れている。笹の葉音も違う。
「・・・・・・それは、お前が大人になった証ある」
なぜか中国の目は熱くなってくる。同じように溢れ出す涙を拭く事もせず、裾を握っていた日本の手に触れながら、少し笑うともう一度、
「おやすみある、日本」と優しく囁いた。
* * *
汚した服を両手で握り締めながら日本は泣いた。折角、着替えさせてもらった服を中国に会いたい一心で汚してしまった。そして怒られてしまう事が酷く怖くて、そこから嫌われてしまうかと思うと涙が溢れるのを止められなかった。
「日本! なにしてるある!」
籠を背負い、朱の服を着た中国が葉を踏み締めながら、藪から飛び出て来た。
「日本の気配がすると思ったら、どうしたあるー?」
起きちゃったあるか? としゃがみ、日本と目線を合わせて訪ねる。その途端に日本から更に涙が溢れ出したけれども、声を上げる事はない。
日本を上から下まで見た中国は、小さい身体を縮める日本を抱き上げる。
「ちゅ、ちゅごくさん」
これでは汚れてしまうと日本が身体をくねるが、
「しょーがねーやつある」
抱きしめながら額をくっ付けて中国は日本の目を見つめる。
「どうしたある?」
「・・・・・・服、服を汚してしまいました」
ほろほろと大粒の涙が日本の頬を伝って、服の青色を濃くしてく。罪悪感にまみれる日本に中国は、
「洗えばいいある。我がいくらでも洗って日本に着せてあげるある」
さあ、帰るあるよー。中国は日本を目一杯抱きしめて歩きだす。胸に顔を押しつけさせて涙を拭ってやると、苦しがった日本が顔を上げる頃に、中国は微笑んでやる。安心していいと。
「・・・・・・中国さん」
「何ある?」
「中国さんから海の音が聞こえます」
心臓が脈打つ音とは違うものが、中国の胸の辺りから聞こえてくる。初めて発見した好奇心いっぱいの瞳が中国を見つめ、その目に答えるように中国は言う。
「それは心臓が動いて出来る、身体の中の波の音ある」
人間と同じ、命――血液――が脈打つ音。それが日本には細波に聞こえたらしい。
「お前にもある音ね。おっきくなったら分かるある」
中国は腕の中でうとうとし始めた弟に、最後、
「おやすみある、日本」と優しく囁いた。