Don't cry for me Amestris
#1 Requiem for the white rose
低く白い雲が空を覆う冬のその日、街はひどい騒ぎの中にあり、とてもではないが都市としてまともに機能するような状態ではなかった。
街頭では老いも若きも男も女も皆が涙に暮れ、号外を配る新聞売りまでもが顔をくしゃくしゃにして、配られることもなくそれらの号外は皆つむじ風に巻き上げられて街路を空を舞う。それらは数年前、セントラルの中心である現在の大統領官邸、当時は大総統官邸だったそのバルコニーの前で見られた光景と奇しくも似ていたが、その時と今とでは人々の感情に差がありすぎた。当時は街は歓喜と熱狂に包まれていたものだが、今ここにあるのはただひたすらに悲しみのみであったから。
ぴったりと鎧戸を閉めたその店も暗く灯りを落としており、しんと静まり返っていた。だが、外の様相とは異なり、その店、デビルズネストという酒場は、ただひたすらに息を潜めるように静まり返っていた。外では悲しみの喧騒が朝からひっきりなしに続いていることを考えたら、それはそれで異色ではあった。ただ、今のこの街にそれを気にするような者はほとんどいなかったのだけれど。
「…朝からとんでもねえ騒ぎだな」
店の二階、窓べりに寄りかかって腕組みをした男は、ぽつりと、どこか呆れたような響きでそう呟いた。
「そりゃあそうじゃない? 何しろアメストリスの白薔薇が死んじゃったんだから」
それに笑い混じり答えたのは、男の奥、テーブルに足を投げ出した髪の長い青年である。
「笑うものじゃないわ、エンヴィー。不謹慎でしょう」
それを諌めたのは、部屋の扉を開けた背の高い、実にあだっぽい美しい女性だった。どことなく年齢不詳だが、長く豊かな黒髪も、豊満な肢体も目に楽しい。
「はいはい。…で、どうよ? 白薔薇さん?」
諌めた女性に続いて室内に入ってきたのは、細身の、どちらかといえば小柄な女性だった。少女とでも言いたくなるような雰囲気の、頭から白いショールをかぶった。
ショールから零れるのは見事な金髪で、瞳もまた金色。この室内にいる残りの三人が皆黒髪黒目な上に、室内は薄暗かったから、そこだけ光が当たったようだった。
「白薔薇は死んだ、んだろ」
黙って立っていれば夢のような美しい娘なのだが、開いた口から出た言葉はぞんざいで、小さく笑った顔は悪戯な少年のようだった。
「ここにいるのは、ただのエドワードだよ」
ラジオでは朝から、「アメストリスの白薔薇」の訃報を伝えていた。合間に流されるのは生前の彼女の数少ないインタビューや、孤児院を慰問した際のピアノの演奏、それから、彼女の夫であるこの国で最初の、そして現在の大統領である男の、短く万感の篭った彼女を労わる言葉、そういったものたちばかり。街頭の人々の悲しみの声、そういったものばかり。
数年前まで、この国は一部の特権階級が支配する国だった。
だが。上流階級が軍の上層部も掌握していた中、彼らの権益を守り、国に圧制を敷いていた大総統以下軍上層部をクーデターにより打ち倒した男がいた。彼は労働者を率いて立ち上がり、軍の大半を占める下層部の絶大な支持を受け、遂にはこの国で最初の大統領となった。
彼の名をロイ・マスタング。
そして彼の隣で彼を支えた、彼が愛されるそれ以上に民衆に、労働者達に愛された、田舎の小さな町からやってきた娘。彼女だけの白い軍服を身に付けて戦った娘、ドレスといえばいつでも花嫁のような白いドレスばかりを着ていた彼女を、いつしか誰かが、いや誰もが「白薔薇」と呼ぶようになった。
彼女の本当の名前は誰も知らない。ただ、エディと呼ばれていた。その他には白薔薇と。
その彼女が、不治の病を得た、という知らせは半年前に明らかにされていた。民衆は誰しもがその回復を祈った。大統領官邸には、毎日見舞いの手紙や品が引きも切らさぬ勢いで届けられていた。ラジオでも数回、彼女自身からの礼が伝えられた。大統領の談話でも、政治問題よりも彼女の回復が報道陣から尋ねられる事の方が多かったくらいだったろう。
"マスタングの政治は女でもっている"
そうした陰口もなくはなかったが、街中でおおっぴらに吹聴できたものではなかった。そんなことをした日には、おっかないおかみさんたちに箒で袋叩きにされても文句は言えなかっただろう。
小さな町に私生児として生まれ、幼くして母を亡くして苦労したという彼女の逸話も、基金を打ちたて孤児や寡婦、失業者のために献身した姿も、彼女たちの心を大きく掴んでいたのだ。
その「白薔薇」がまだ若い身空で病を得たと、それが民衆に知れたのは、外国からの賓客を招いての席で彼女が倒れたからだ。季節は夏の終わりだったろう。
それから季節は急ぎ足で茜色の秋を過ぎ、練炭の煙が街を包み始める冬の訪れは今年に限りいやに早く感じられたものだ。誰の心にも。
そうして、雪でも降り出しそうな空のある朝。遂には彼女は官邸にて息を引き取ったと報じられたのだった。
執務室の机に足を投げ出して、男は目を閉じていた。
普段は上げて整えている黒髪も今はばらばらと落とされていて、そうしていると随分と童顔の男だった。
彼こそはロイ・マスタング。アメストリス最初の大統領である。
「………」
たったの数年に過ぎない。
彼女と出会い、共に過ごした日つきは、ほんの瞬きほどの短い間だった。だがなんと色鮮やかな日であったことだろう。笑った顔も、拗ねた顔も、泣いた顔も、全部が全部鮮やかなひとだった。存在の何もかも、表情のすべて、仕種のひとつひとつまでもが。
「――閣下」
ドアの向こうから控え目にかけられた声に、マスタングは顔を上げた。黒い瞳は深く落ち着いていた。
そう。彼はこれから、悲しみに暮れる、この世でたった一人の恋人を失った哀れな男として民衆の前に出なければならない。国を救った英雄でも、国を率いる大統領でもなく、突然の不幸になす術もない無力な、ただのひとりの男として。
「…準備は出来たか」
ドア越し尋ねれば、はい、と返す声は淡々としている。数少ない腹心の部下だ、相手もまた、こちらの事情はよく心得ている。
「――了解した。では五分後に」
マスタングは机から足を下ろし、鏡の前に歩み寄った。そして、思い出したように扉の向うに声をかける。
「白薔薇を用意しておいてくれるか、庭のものを切ってくれればかまわない」
かしこまりました、との答えに、彼は鏡を見つめながら付け加えた。
「一輪でいい」
マスタングが大統領官邸ホールにて会見を行追うという頃、デビルズネストでは、エンヴィーが担いできたラジオを囲んで、店に住み込んでいる人間も含め、十人前後が思い思いの格好で腰を下ろしていた。その中にはショールを頭からかぶった白い装束の娘もいる。
「エンヴィー、チューニングあってんのかぁ?」
「うるっさいな、この店の電波の入りが悪いんだっつうの。グリードの立地選びが悪いんだって」
「てめえこそガタガタいうんじゃねえ、居候」
「んっだそれ、働いてるじゃねぇか!」
「うるさいわよ」
妖艶な美女が冷たく咎めれば、それ以外の人間からも同意する空気が漂ってくる。それに詰まってしまって、ふたりは渋々黙り込んだ。
「ドルチェット、あなたこういうの得意でなくて」
作品名:Don't cry for me Amestris 作家名:スサ