認識の齟齬
人生を浪費している。
「・・・気がする。」
「そういう事をこのタイミングで言うのがお前だよな。」
ぽつりと唐突に阿部がこぼした一言に、耳元でそれを聞いた花井はジトリと眉を寄せてみせた。
「時間どころの話じゃ済まねぇと思うんだこの浪費っぷり。なんつうの、不毛っての。日本語よくわかんねーけど。」
咎められたのをさらりと無視して、阿部はつらつらと続ける。
しかしその阿部自身はといえば、他の家族が出払った花井の家の、花井の部屋で、ラグが敷かれた床にぺたりと座って他ならぬ花井とひとつキスを済ませたところだったりする。
開け放った窓からは遠く飛行機のうなる音と微かな鳥の声が届いている。
空はまだ青色が濃く残り、夏の終わりを意識させるにはほど遠いのだけれども、つい最近まで毎日目の眩むような直射日光の元でだくだくに汗を流していた自分達にはエアコンの冷たい空気は必要無い。
変わりに首を振る扇風機の風が、机に広げられた二人分の参考書やノートの端をはためかせる。
半分ほどに減ったグラスの麦茶。溶けた氷。湿ったコースター。
解けてしまった集中力にひとつ息をついて、顔をあげたところでの戯れだった。
戯れと言える位には二人とももう慣れたもので、更に言えばそれは合図に過ぎない。
キス1つでふわりと湧いた空気はどこか生ぬるく濡れていて、そのままふたつみっつとキスを重ねて高まった熱と一緒に体丸ごとその塊になってしまうはずだった。
それがいつも通りの手順。
何も言わなくても阿部もそうなる可能性を解って花井の家を訪れているはずで、もしかしたら解っているから来ている場合も、そういうこともこれまであったわけで。
初めの頃こそ緊張やら気恥ずかしさやらで向き直った挙句まったく関係の無い話が飛び出すなんてことはあったけれど、今ではそんな行為は野暮だと認識できるほど平たく言えば慣れてしまった。
もちろんそれはそれで喜ぶべきことでありことすれ憂うことなどひとつもない。
しかし阿部の一言で花井の手は止まってしまった。
「あー・・・じゃあ止めるか。」
気が乗らないなら仕方ない、そう言うように目をふせ、決まり悪げに花井は阿部の頬を撫でていた右手で自身のタオルの巻かれた後頭部をかいた。
体を引き、阿部との間に物理的な距離を作り直す。
別に怒ったわけではなかったのだがなんとなく、そう、興を削がれたと言うのだろうか。
「別にイヤとは言ってねぇよ?」
阿部があっけらと目を瞬いて言う。
「言ってるようなもんじゃねぇの」
「ちげぇって。何だお前めんどくせぇな」
本当に怒ってはいなかったのだけれど、戯れの雲行きは怪しくなる。
そして阿部の独り言のような呟きの真意も花井はいまいちよく解らなかった。
ただ思い付きを言っただけだったのかもしれないし、そう聞こえる気もするのでじゃあしたいんだなと続ける事も出来る。
だけれど、だけど。
こういう思いつきはただ見逃して放置しておいてもいいものだろうか。
もしかするとそのうち取り返しのつかない事になったりするんじゃないだろうか。
そんな事態は困るしなと花井は考えをめぐらせて、心の中で肯く。
納得いかなさげに睨みを利かせた視線を寄越す阿部を見返した。
なにせこの、口の悪さと天邪鬼ぶりにもいい加減年季が入ってきた恋人はその実、虚勢ばかり立派に振りかざして、あまり自分の本音を口にしないもので。
ただこの会話からその本心を見つけようにもその手がかりも今はまだ無く、花井はやはり一度出した手を収めてしまう他はない。
「ま、お前はウチに受験勉強しに来たわけで確かにこんなことしてる場合じゃないかもな。」
「おーそうだよ勉強しに来てんだよ。つかお前そういや数学でわかんねぇトコあったって言ってなかったか。」
「あぁそうそう。」
何もなかったように参考書と試験対策の冊子なんかをばらばらとめくって文字と記号を追う作業に戻ろうとしたものの阿部の集中は結局途切れたままのようで、握ったシャーペンの先はノートの2センチ上で浮いたまま動かない。
やはりこれは何か考えているのだろうなと、さっきのアレはその端が思わず口から漏れてしまったものなのだろうなと花井が思ったところで阿部が再び今度は顔を上げないまま切り出した。
「そういやさ。」
続きが聞けるだろうかと花井も阿部の声に耳を傾け手を止める。
「3年ってもうみんな引退したのかな。」
(は、)
それはまたこれまでの流れを一切汲まない唐突な問いだったけれど、その内容に思わず花井は阿部の顔を見た。
その表情は特に変わったところはなかったのでどこか安心する。
作業を放棄した手の中で、くるくるとシャーペンが弄られていた。
「部活?」
「なんか文化部とか遅いみてぇだったじゃん。」
「さぁ・・・でもさすがに引退してんだろ。じゃねぇと補講とか出れなくね?」
「あーかもなー。オレらでさえ引退したら今までの時間まんますぐ勉強。」
野球部の夏は早い。
早くて熱い。熱くて熱くて楽しすぎる夏を過ごした。
花井や阿部たちにとってそれはまだ思い出にはならない。
だから思い出すとかそういうものでもまだないのだけれど、当たり前のように2年と数ヶ月続いた野球漬けの日々が突然掻き消えたのは、解っていたことのはずなのにまだどこか嘘ような心地がしていた。
「そんなすぐ受験生になれっかよって思うけどな。」
「な。」
気後れすら感じるのにそれでもこうして机に向かうのはなんなんだろうなと、夏を走り抜けたその慣性のまま何かに心を傾けていた方が楽だからなのかもしれなかった。
「でもさ、今日早えーヤツは早ぇなって思った。」
「何が?」
「今日クラスで合コン誘われてさ。」
「はぁ!?」
二転三転する話を聞かされる花井はそれ以上にその内容に驚いてしまうが、阿部はあまりに平然としている。
それを見ると弾かれた意識は少し収まったのだが。
「行くのかよ。」
「行ってどーすんだよ興味ねーよ。そんな話じゃねぇんだよ。」
「何の話だよ。」
「だから行かねぇっつったらもったいねぇって言われてよ。
ちょっと前まで部活部活でいきなり暇になって、それなのによくすぐ次を満喫しようとかいう気になれんなって思ってよ。」
と、阿部は本当にどこか感心したふうに言い終えた。
そりゃお前、と花井は思う。
阿部とはクラスが違ってしまっているから彼に合コンを持ちかけてきたのがどんな奴かはわからないけれど、それは単にそいつが元々そういう奴なんではないだろうか。
それで、阿部が元々合コンだのなんだのには全く興味が無い上に今まで野球野球でまわりが放課後や休日に何してるかなんて気にも留めてなかっただけじゃないのか。
そりゃあ多少のタガが外れたりなんて事はあるにしても。
変わり身が早いとか適応力がどうとかぼやいている阿部を見ながら、花井は十中八九そうだろうなと思いつつ口にはせず、ああそれでと話の関連性をなんとか引きずり出す。
「それでオレらは浪費してるんじゃないかって?」
「お前まだそんなこと言ってんの。」
「違うのかよ。」
阿部は顔を顰めた。
「何言ってんだかよくわかんねーよ。」
「合コン行ってみりゃわかったんじゃねーの。」
「・・・気がする。」
「そういう事をこのタイミングで言うのがお前だよな。」
ぽつりと唐突に阿部がこぼした一言に、耳元でそれを聞いた花井はジトリと眉を寄せてみせた。
「時間どころの話じゃ済まねぇと思うんだこの浪費っぷり。なんつうの、不毛っての。日本語よくわかんねーけど。」
咎められたのをさらりと無視して、阿部はつらつらと続ける。
しかしその阿部自身はといえば、他の家族が出払った花井の家の、花井の部屋で、ラグが敷かれた床にぺたりと座って他ならぬ花井とひとつキスを済ませたところだったりする。
開け放った窓からは遠く飛行機のうなる音と微かな鳥の声が届いている。
空はまだ青色が濃く残り、夏の終わりを意識させるにはほど遠いのだけれども、つい最近まで毎日目の眩むような直射日光の元でだくだくに汗を流していた自分達にはエアコンの冷たい空気は必要無い。
変わりに首を振る扇風機の風が、机に広げられた二人分の参考書やノートの端をはためかせる。
半分ほどに減ったグラスの麦茶。溶けた氷。湿ったコースター。
解けてしまった集中力にひとつ息をついて、顔をあげたところでの戯れだった。
戯れと言える位には二人とももう慣れたもので、更に言えばそれは合図に過ぎない。
キス1つでふわりと湧いた空気はどこか生ぬるく濡れていて、そのままふたつみっつとキスを重ねて高まった熱と一緒に体丸ごとその塊になってしまうはずだった。
それがいつも通りの手順。
何も言わなくても阿部もそうなる可能性を解って花井の家を訪れているはずで、もしかしたら解っているから来ている場合も、そういうこともこれまであったわけで。
初めの頃こそ緊張やら気恥ずかしさやらで向き直った挙句まったく関係の無い話が飛び出すなんてことはあったけれど、今ではそんな行為は野暮だと認識できるほど平たく言えば慣れてしまった。
もちろんそれはそれで喜ぶべきことでありことすれ憂うことなどひとつもない。
しかし阿部の一言で花井の手は止まってしまった。
「あー・・・じゃあ止めるか。」
気が乗らないなら仕方ない、そう言うように目をふせ、決まり悪げに花井は阿部の頬を撫でていた右手で自身のタオルの巻かれた後頭部をかいた。
体を引き、阿部との間に物理的な距離を作り直す。
別に怒ったわけではなかったのだがなんとなく、そう、興を削がれたと言うのだろうか。
「別にイヤとは言ってねぇよ?」
阿部があっけらと目を瞬いて言う。
「言ってるようなもんじゃねぇの」
「ちげぇって。何だお前めんどくせぇな」
本当に怒ってはいなかったのだけれど、戯れの雲行きは怪しくなる。
そして阿部の独り言のような呟きの真意も花井はいまいちよく解らなかった。
ただ思い付きを言っただけだったのかもしれないし、そう聞こえる気もするのでじゃあしたいんだなと続ける事も出来る。
だけれど、だけど。
こういう思いつきはただ見逃して放置しておいてもいいものだろうか。
もしかするとそのうち取り返しのつかない事になったりするんじゃないだろうか。
そんな事態は困るしなと花井は考えをめぐらせて、心の中で肯く。
納得いかなさげに睨みを利かせた視線を寄越す阿部を見返した。
なにせこの、口の悪さと天邪鬼ぶりにもいい加減年季が入ってきた恋人はその実、虚勢ばかり立派に振りかざして、あまり自分の本音を口にしないもので。
ただこの会話からその本心を見つけようにもその手がかりも今はまだ無く、花井はやはり一度出した手を収めてしまう他はない。
「ま、お前はウチに受験勉強しに来たわけで確かにこんなことしてる場合じゃないかもな。」
「おーそうだよ勉強しに来てんだよ。つかお前そういや数学でわかんねぇトコあったって言ってなかったか。」
「あぁそうそう。」
何もなかったように参考書と試験対策の冊子なんかをばらばらとめくって文字と記号を追う作業に戻ろうとしたものの阿部の集中は結局途切れたままのようで、握ったシャーペンの先はノートの2センチ上で浮いたまま動かない。
やはりこれは何か考えているのだろうなと、さっきのアレはその端が思わず口から漏れてしまったものなのだろうなと花井が思ったところで阿部が再び今度は顔を上げないまま切り出した。
「そういやさ。」
続きが聞けるだろうかと花井も阿部の声に耳を傾け手を止める。
「3年ってもうみんな引退したのかな。」
(は、)
それはまたこれまでの流れを一切汲まない唐突な問いだったけれど、その内容に思わず花井は阿部の顔を見た。
その表情は特に変わったところはなかったのでどこか安心する。
作業を放棄した手の中で、くるくるとシャーペンが弄られていた。
「部活?」
「なんか文化部とか遅いみてぇだったじゃん。」
「さぁ・・・でもさすがに引退してんだろ。じゃねぇと補講とか出れなくね?」
「あーかもなー。オレらでさえ引退したら今までの時間まんますぐ勉強。」
野球部の夏は早い。
早くて熱い。熱くて熱くて楽しすぎる夏を過ごした。
花井や阿部たちにとってそれはまだ思い出にはならない。
だから思い出すとかそういうものでもまだないのだけれど、当たり前のように2年と数ヶ月続いた野球漬けの日々が突然掻き消えたのは、解っていたことのはずなのにまだどこか嘘ような心地がしていた。
「そんなすぐ受験生になれっかよって思うけどな。」
「な。」
気後れすら感じるのにそれでもこうして机に向かうのはなんなんだろうなと、夏を走り抜けたその慣性のまま何かに心を傾けていた方が楽だからなのかもしれなかった。
「でもさ、今日早えーヤツは早ぇなって思った。」
「何が?」
「今日クラスで合コン誘われてさ。」
「はぁ!?」
二転三転する話を聞かされる花井はそれ以上にその内容に驚いてしまうが、阿部はあまりに平然としている。
それを見ると弾かれた意識は少し収まったのだが。
「行くのかよ。」
「行ってどーすんだよ興味ねーよ。そんな話じゃねぇんだよ。」
「何の話だよ。」
「だから行かねぇっつったらもったいねぇって言われてよ。
ちょっと前まで部活部活でいきなり暇になって、それなのによくすぐ次を満喫しようとかいう気になれんなって思ってよ。」
と、阿部は本当にどこか感心したふうに言い終えた。
そりゃお前、と花井は思う。
阿部とはクラスが違ってしまっているから彼に合コンを持ちかけてきたのがどんな奴かはわからないけれど、それは単にそいつが元々そういう奴なんではないだろうか。
それで、阿部が元々合コンだのなんだのには全く興味が無い上に今まで野球野球でまわりが放課後や休日に何してるかなんて気にも留めてなかっただけじゃないのか。
そりゃあ多少のタガが外れたりなんて事はあるにしても。
変わり身が早いとか適応力がどうとかぼやいている阿部を見ながら、花井は十中八九そうだろうなと思いつつ口にはせず、ああそれでと話の関連性をなんとか引きずり出す。
「それでオレらは浪費してるんじゃないかって?」
「お前まだそんなこと言ってんの。」
「違うのかよ。」
阿部は顔を顰めた。
「何言ってんだかよくわかんねーよ。」
「合コン行ってみりゃわかったんじゃねーの。」