Warp.
いつからこんな優しい武器を持つようになったのだろう。俺はあえて教えてあげなかった。そのままの彼でいいと思っていたから。彼を少しでも否定したくなかったから。傷付けたくなかったから。
『大人になった』、なんてそんな事で済むのだろうか。この不自然は。
そんな自問をごまかす様に、サンドイッチにかぶりつく。
そのときもう一度目に入った不破の黒いネクタイ。改めて考えるとあまり見覚えのない姿だ。もしかしたら初めてだったかもしれない。
無地の黒は他の誰でもない彼らしすぎるけれど、他の誰でもない不破がネクタイを買っている姿を思い浮かべるとやはり不思議な感じがした。
「お前の方こそ、活躍しているのだろう?」
コーヒーに口をつけながらそう言われて、ついむせそうになった。
「日本のA代表の試合でこちらに来ているんだろう。」
「っ知ってたの!?」
「不可抗力だ。サッカーに関しては日本より数段、こちらの方が情報が多い。
テレビでも新聞でも、お前を見た。」
伏せた目。長い睫毛。それを眺めながら混みあがるむず痒い気持ちになる。不可抗力だと言われても、嬉しいと思ったのは確かで。
「嬉しいよ、不破君。」
だからそれをそのまま口にする。
すると不破君が、今度はこちらを向いたまま―――また顔を赤らめた。
それが自分の心を一気に増長させる。
警鐘は更に煩く鳴り響く。
でも心が溢れて、こぼれて。
いいのか?こぼして。
「―――ふわく、」
「しぶさわ。」
不破君はやはりまた目をふせて、もう冷め始めたコーヒーを両手で包んで、それを眺めながら明らかに緊張の混ざる声で俺の名前を呼んだ。
「渋沢、俺はお前に謝らねばならない。」
「・・・え?」
不破君は何か言いあぐねて、でも見当もつかないからその先が促せない。
次の言葉を待つしかなかった。
そして意を決したように顔をあげ、まっすぐに俺を見た黒い瞳がまさに初めて会った時とだぶって見えた。
「テレビと、新聞でお前を見た。こっちに来ると、知った。」
「・・・うん。」
「それから昨日、そこの大通りでお前を見かけた。」
「・・・え?」
「驚いて、気付いたら、後をつけていたのだ。お前の。
それで、それからっ・・・お前がこの店に入るのを見た。だから、」
「俺を待ってくれてたってこと?」
次の日も来るとは限らない。来ていたとしても、その時間、タイミングまで同じとは限らない。それでも君は俺を、
「そう、なる。
すまなかった。黙って後をつけて、プライバシーの損害もいいところだ。それから、邪魔をしてっ」
早口でそう言って、ダン、と乱暴にテーブルに手を付き勢い良く不破君が立ち上がる。
「待って!」
そう叫んだ時には俺は椅子に座ったまま、その不破君の手首を掴んでいた。
「離せ・・・。」
「嫌だよ。」
引こうとする腕を更に強く握る。
「ッ!」
「痛くしてごめん。俺から逃げるのは無理だよ。ゴールキーパーの握力は知ってるだろ?それから、俺から離すのも無理だ。」
「何でッ!」
「わからない。でも離したくない。」
そう言いきった俺の顔を、恐る恐る不破君が見下ろしていた。
俺は今どんな顔をしているだろう。そんな事は確かめられないけれど、不破君の顔を見ると怯えているようにしか見えない。
「でも・・・お前はもう俺を見ないのだろう?」
だから、頼む、離せ。
消え入るような小さな声なのに、鳴り響いていた警鐘なんて比べ物にならない程の破壊力を持って俺の頭を揺らした。
「違うっ・・・いや、違わないな・・・でも不破君、違うんだ!」
違わない?なぜそう言える?
俺は昔の不破君の面影ばかり追いかけて、今目の前にいる不破君を見ようともしないで。
でもそれは早々に諦めていた、弱すぎた自分の心のせいだ。
不破君は今の俺を見てくれているのに。真っ直ぐに真っ直ぐに不器用なまま。
「会えて、嬉しい。よかった。ありがとう。・・・不破君。」
率直に今の気持ちを伝える。
手はまだ離さない。
そのかわりゆっくりと立ち上がって。
そのまま隣に、近づいて。
そうすると不破君は声を少し震わせて、応えてくれた。
「渋沢・・・また、会ってくれ。」
「うん。・・・うん、また会おうね。それから、君の話をまた聞かせて?これからも。」
「・・・いいのか?」
懐かしくてあたらしい綺麗な黒い目が俺を見上げる。
もうひとつ、俺はゆっくりと肯いた。
警鐘はかき消えて。
「俺も不破君に会いたいんだ。いや、ずっと会いたかったんだ・・・不破君。」