タナトスあるいはヒュプノス
「そうだ。昔から眠れない時のおまじない的な方法があるのだよ」と告げた。
「どんな?」と問われ、「羊を数えるんだ」と答えた。
「羊って、あの、羊?」
「そう。羊毛を取る、あの羊だ」
「何で?」
「あの羊のフワフワした感じがリラックスを与え、それが牧場の柵を一匹ずつ飛び越える風景を思い描きながら数を数えていると眠くなると言うんだよ」
「へぇ・・・」
「試してみたらどうだ?」
「俺が?」
「そう。君が」
ムゥ〜〜とした表情をしていたエドが、やおら顔を天井へ向けると「羊が1匹、羊が2匹・・」と数えだした。
が、100匹を超えても彼の目はしっかりと開いており、一向に眠気が訪れる気配が無い。
枕元のランプの灯が瞳をキラキラさせており、ロイの欲情が無意識に煽られる。
“如何したと言うんだ、私は。彼は子供で、男だ。その相手に何だってこうも下半身を直撃されているんだ?彼に対して私は性的な欲求を持っていたと言うのか?いや!そんなはずは・・・”
ロイが悶々としているうちに、羊が200匹に近くなる。それでもエドの目に眠気は訪れない。
「羊が200匹!大佐ぁ。ぜぇ〜〜んぜんっ眠くなんねぇんだけど〜〜」
クリンッと身体を己の方に向けられて、ロイはドキンッと再び心臓を跳ねさせた。
「そうか。君は数を正確に数えようとするあまり、眠くならないんだよ。よし。じゃあ次は私が代わりに数えてやろう。な」
ロイはそう言うと、逆を向いて、とエドに寝返りを打たせ、背後から抱き締める様にする。
「へっ?」
肩越しに振り返るエドの目の前に、頭の下から差し込んだ片手を当てると視線を遮り、耳元に唇を寄せてゆっくりと数を数え始めた。
「羊が201匹、羊が202匹・・・・・」
羊の数が250匹になる頃に片手をゆっくりと少しだけ外してみると、エドの瞳から力が抜けてきた。
そのまま数えていると瞼が少しずつ降り、ハニーゴールドの瞳を覆い隠し始める。
「羊が299匹、羊が300匹。どうだ?だんだんと眠くなってきただろう?そう。そのままずっと目をつぶっているが良い。羊が301匹、羊が302匹・・・・」と更に続けて、ロイは少しずつ声を落しながら囁くように数え続ける。
「・・・羊が399匹、さあ、これで最期だ。羊が400匹」
腕の中のエドの呼吸は非常にゆっくりとしたものになっており、完全に熟睡しているとわかる。
ロイはエドの瞼に唇をおとすと「良い夢を見たまえよ。こうして私の腕の中に居る時ぐらいはね」と囁いた。
明日になれば、また一番大切な弟の許に戻って過酷な旅に出るだろう。
だが、今は安らかに眠って欲しい。
この手はイシュバールで多くの罪無き人々に死を与えた。だが、今この時、彼に安らぎと眠りを与える手でありたい。そして自分だけがその眠りを与えられる者でありたいと、ロイは切望した。
目の前の小さな頭に鼻先を寄せると、健康的な日向の様な香りが漂ってくる。
その香りを胸いっぱいに吸い込むと、ロイも眠りの世界に引き込まれていった。
今夜だけは悪夢に魘される事は無いだろうと確信しながら・・・
2008/06/26
*タナトスは死を、ヒュプノスは眠りを司り、共に冥界の王ハデスの傍らに控える者としてギリシャ神話に登場している
作品名:タナトスあるいはヒュプノス 作家名:まお