ジェンガ
これは、救われない二人の物語。
“ジェンガ”
ナターリヤ・アルロフスカヤと出会ったのは1年前の冬の日だった。
いつも学校帰りに近所の公園に寄るのが日課だった私は、そこで彼女に出会った。
毎日公園に行っていたのはそこに捨てられていた子猫が心配だったからだ。
私はマンションに住んでいて、子猫を飼うことを許されていなかった。
かといって自分で飼い主を見つけてやれるほど顔も広くないし、そこまでする義務もない。子猫は小汚い段ボール箱の中に、タオルにくるまって捨てられていた。
もともと動物が好きだったのもあって、学校帰りに面倒を見るようになった。
これが、自己満足であることは十分承知していた。
飼うこともできないのに面倒を見るのは矛盾している。
餌を与えて、この子猫はどうなるのだろう。
人間に飼われることに慣れてしまった動物は、もう野生には帰れない。
自分で食糧を調達することもできずに餓死するのが末路だ。
しかし、そんな風に簡単に見捨てることはできなかったのだ。
ただ、少しの間だけ。ほんのひとときだけでもこの子猫が生きられるように、と。
段ボール箱に向かい、温めた牛乳を入れた小さな皿を置く。
子猫はみゃあと鳴くとぺろぺろと皿を舐めた。
しゃがんでいる私の後ろから、少女の声が聞こえた。
「残酷だな。」
振り返ると、公園にあるブランコにその少女は腰かけていた。
キィと少しだけブランコを揺らす。こちらは見ていない。しかし、先ほどの言葉は確実に自分に向けられたものだろう。
「・・・なぜ、そう思うのですか?」
知らない人間に話しかけるのは少々躊躇ったが、向こうが自分に話しかけているのならば答えなくては失礼だ。
彼女は相変わらずブランコを少し漕いで、こちらを見ようとはしなかった。
「その猫、飼えないんだろう?なら、お前はどうしてそんなことをする?」
「・・・いけないですか?」
ぽそりと呟くような声。しかし彼女の声はよく通った。
少しむっとしながら答えると、ようやくこちらを向いた。
じっと見られて少々いたたまれなくなる。
「そういうわけじゃない。でも、助けるならそいつの一生の責任をとるべきだと、私は思う。」
紫色の澄んだ瞳で見つめられて、言葉に詰まった。
その通りだ。同情で一時だけ命を繋ぐなんて。けれど。
「じゃあ、見捨てろというんですか?」
そんなことできません、と言うと彼女はこちらに近づいてきた。
きらきらと夕焼けの光を浴びて輝く白銀の髪。
うっかり見惚れるほど美しかった。
「お前は、おひとよしなんだな。」
嘲るような、呆れるような微笑。そんなことわかっている。
けれど、こんな出会って数分しか経たない他人に自分の性格をどうこう言われるのはなんだか腹が立つ。
「では、私はどうするべきなのでしょうか?」
少し腹を立てながら、つっけんどんに言い返した。
彼女はふ、とまた笑う。
二・三歩歩くと、ヒールのあるパンプスはカツカツと軽快な音を鳴らせた。
プリーツ・スカートがひらひらと揺れる。
確かこの制服は、名門女子校の制服だったはずだ。
カツコツと音を鳴らしながら彼女はこちらに近づいてきた。
「・・・私が飼う。」
ぽそりと、よく通る声が聞こえる。
彼女は、段ボール箱の近くに来るとしゃがみこみ、子猫をよしよしと数回撫でてから膝の上に抱いた。振り返ってこちらを向く。紫の瞳がきらりと光を放った。
「それと、おひとよしのお前に頼みたいことがあるんだ。」
ある冬の日の、夕暮れ時のことだった。
**
まさか子猫の面倒を見ていて美少女の恋人になるとは思わなかった。
とんだ棚からぼた餅。恋人といっても期間限定の恋人のふり、だけれど。
猫の次は人間の世話だ。人生はよくわからない。
ナターリヤ・アルロフスカヤと名乗る美少女はいいところのお嬢様で、親から無理矢理に婚約の話を持ってこられたそうなのだ。
その婚約を破棄するために、誰か適当な人物を探して恋人のふりをしてもらい、親の気を変えようという作戦らしい。
「好きな人がいる、とかでいいんじゃないんですか?」
「いや、それは無理だ。私が好きな人は兄さんだから。」
考えられうる妥協案は一瞬で却下された。
家族であれば妹が兄を溺愛しているのは周知の事実であるだろう。
それに、彼女の両親が婚約の話を持ち出してきたのはこのブラコンが原因だというのだ。
年頃になっても浮いた話一つなく兄の姿を追いかける少女に、両親が心配したのだろう。
その両親に少し同情してしまう。
いいところのお嬢さんならば縁談の話は有り余るほどにあるだろう。
加えてあの容貌である。ひきてあまた、というのはこういうことだ。
ただそこにいた、おひとよしの人間として私はその「適当な人物」に任命されたのだ。
こうして、私たちの不器用な疑似恋愛はスタートした。
疑似彼氏としてすることは、放課後に彼女の学校へ迎えに行くことと、休日にデートすることだった。そして時がきたら彼女の両親に挨拶に行くという。
この疑似恋愛で私が得することはなにもない。子猫を拾ってくれた恩はあるけれど。
しかし、実を言うと私は彼女のことが嫌いではなかった。だから引き受けたのかと聞かれればそうではない。おひとよしとして、困っている少女をほおっておくことができなかったのだ。
こんなことを言ったらまた彼女に笑われてしまうだろうか。
そういうわけで私はほんの少し彼女に好意を抱いていた。
今まで女の子と関わることなんてほとんどなかったから、無理もないのかもしれない。
面倒臭いと思うよりも、この疑似恋愛を楽しんでいる自分がいた。
まるでゲームのようだ。恋の駆け引き。
**
疑似恋愛生活は、1週間もすれば慣れてきた。
子猫に会いに行く時間が彼女に会いに行く時間に変わっただけだ。
彼女にこれを言ったら怒られた。私は猫じゃない!
・・・女の子はよくわからない。
「もう慣れたか?ほ・・・菊。」
「貴女はまだ、慣れていないようですね、ナターリヤさん。」
私たちは恋人同士でいるときは名前で呼び合おうと決めていた。
彼女は、私の名前を呼ぶのに苦戦していた。
「日本人は最初に名字が来るからいけない。私たちは名・姓の順番だろう?あとなんだ菊って。女の名前だろ。」
「人の名前にケチ付けないでください。私だってコンプレックスなんですから。」
菊という名前は小さい時からよく女みたいだと馬鹿にされたものだった。
もともと身体も小柄だったため余計女だとからかわれた。
名前を付けたという顔も知らない祖母を恨んだ。孫には花の名をつけたいと言って聞かなかったらしい。だからと言って男に菊と名付けるのか。祖母は私が幼い時に病気で亡くなった。文句を言うこともできなかった。
ぶつぶつと言うと彼女は少しシュンとした。
悪気があって言ったつもりではなかったんだ、と顔の前で手を振る。
「でも、私は好きだぞ。菊って、発音が好きだ。言いやすい。」
いたずらっ子のように笑う彼女を見るのはこれが初めてだった。
私は祖母に、この名前をつけてくれたことを生まれて初めて感謝した。
「あ、ありがとう、・・・ございます」
“ジェンガ”
ナターリヤ・アルロフスカヤと出会ったのは1年前の冬の日だった。
いつも学校帰りに近所の公園に寄るのが日課だった私は、そこで彼女に出会った。
毎日公園に行っていたのはそこに捨てられていた子猫が心配だったからだ。
私はマンションに住んでいて、子猫を飼うことを許されていなかった。
かといって自分で飼い主を見つけてやれるほど顔も広くないし、そこまでする義務もない。子猫は小汚い段ボール箱の中に、タオルにくるまって捨てられていた。
もともと動物が好きだったのもあって、学校帰りに面倒を見るようになった。
これが、自己満足であることは十分承知していた。
飼うこともできないのに面倒を見るのは矛盾している。
餌を与えて、この子猫はどうなるのだろう。
人間に飼われることに慣れてしまった動物は、もう野生には帰れない。
自分で食糧を調達することもできずに餓死するのが末路だ。
しかし、そんな風に簡単に見捨てることはできなかったのだ。
ただ、少しの間だけ。ほんのひとときだけでもこの子猫が生きられるように、と。
段ボール箱に向かい、温めた牛乳を入れた小さな皿を置く。
子猫はみゃあと鳴くとぺろぺろと皿を舐めた。
しゃがんでいる私の後ろから、少女の声が聞こえた。
「残酷だな。」
振り返ると、公園にあるブランコにその少女は腰かけていた。
キィと少しだけブランコを揺らす。こちらは見ていない。しかし、先ほどの言葉は確実に自分に向けられたものだろう。
「・・・なぜ、そう思うのですか?」
知らない人間に話しかけるのは少々躊躇ったが、向こうが自分に話しかけているのならば答えなくては失礼だ。
彼女は相変わらずブランコを少し漕いで、こちらを見ようとはしなかった。
「その猫、飼えないんだろう?なら、お前はどうしてそんなことをする?」
「・・・いけないですか?」
ぽそりと呟くような声。しかし彼女の声はよく通った。
少しむっとしながら答えると、ようやくこちらを向いた。
じっと見られて少々いたたまれなくなる。
「そういうわけじゃない。でも、助けるならそいつの一生の責任をとるべきだと、私は思う。」
紫色の澄んだ瞳で見つめられて、言葉に詰まった。
その通りだ。同情で一時だけ命を繋ぐなんて。けれど。
「じゃあ、見捨てろというんですか?」
そんなことできません、と言うと彼女はこちらに近づいてきた。
きらきらと夕焼けの光を浴びて輝く白銀の髪。
うっかり見惚れるほど美しかった。
「お前は、おひとよしなんだな。」
嘲るような、呆れるような微笑。そんなことわかっている。
けれど、こんな出会って数分しか経たない他人に自分の性格をどうこう言われるのはなんだか腹が立つ。
「では、私はどうするべきなのでしょうか?」
少し腹を立てながら、つっけんどんに言い返した。
彼女はふ、とまた笑う。
二・三歩歩くと、ヒールのあるパンプスはカツカツと軽快な音を鳴らせた。
プリーツ・スカートがひらひらと揺れる。
確かこの制服は、名門女子校の制服だったはずだ。
カツコツと音を鳴らしながら彼女はこちらに近づいてきた。
「・・・私が飼う。」
ぽそりと、よく通る声が聞こえる。
彼女は、段ボール箱の近くに来るとしゃがみこみ、子猫をよしよしと数回撫でてから膝の上に抱いた。振り返ってこちらを向く。紫の瞳がきらりと光を放った。
「それと、おひとよしのお前に頼みたいことがあるんだ。」
ある冬の日の、夕暮れ時のことだった。
**
まさか子猫の面倒を見ていて美少女の恋人になるとは思わなかった。
とんだ棚からぼた餅。恋人といっても期間限定の恋人のふり、だけれど。
猫の次は人間の世話だ。人生はよくわからない。
ナターリヤ・アルロフスカヤと名乗る美少女はいいところのお嬢様で、親から無理矢理に婚約の話を持ってこられたそうなのだ。
その婚約を破棄するために、誰か適当な人物を探して恋人のふりをしてもらい、親の気を変えようという作戦らしい。
「好きな人がいる、とかでいいんじゃないんですか?」
「いや、それは無理だ。私が好きな人は兄さんだから。」
考えられうる妥協案は一瞬で却下された。
家族であれば妹が兄を溺愛しているのは周知の事実であるだろう。
それに、彼女の両親が婚約の話を持ち出してきたのはこのブラコンが原因だというのだ。
年頃になっても浮いた話一つなく兄の姿を追いかける少女に、両親が心配したのだろう。
その両親に少し同情してしまう。
いいところのお嬢さんならば縁談の話は有り余るほどにあるだろう。
加えてあの容貌である。ひきてあまた、というのはこういうことだ。
ただそこにいた、おひとよしの人間として私はその「適当な人物」に任命されたのだ。
こうして、私たちの不器用な疑似恋愛はスタートした。
疑似彼氏としてすることは、放課後に彼女の学校へ迎えに行くことと、休日にデートすることだった。そして時がきたら彼女の両親に挨拶に行くという。
この疑似恋愛で私が得することはなにもない。子猫を拾ってくれた恩はあるけれど。
しかし、実を言うと私は彼女のことが嫌いではなかった。だから引き受けたのかと聞かれればそうではない。おひとよしとして、困っている少女をほおっておくことができなかったのだ。
こんなことを言ったらまた彼女に笑われてしまうだろうか。
そういうわけで私はほんの少し彼女に好意を抱いていた。
今まで女の子と関わることなんてほとんどなかったから、無理もないのかもしれない。
面倒臭いと思うよりも、この疑似恋愛を楽しんでいる自分がいた。
まるでゲームのようだ。恋の駆け引き。
**
疑似恋愛生活は、1週間もすれば慣れてきた。
子猫に会いに行く時間が彼女に会いに行く時間に変わっただけだ。
彼女にこれを言ったら怒られた。私は猫じゃない!
・・・女の子はよくわからない。
「もう慣れたか?ほ・・・菊。」
「貴女はまだ、慣れていないようですね、ナターリヤさん。」
私たちは恋人同士でいるときは名前で呼び合おうと決めていた。
彼女は、私の名前を呼ぶのに苦戦していた。
「日本人は最初に名字が来るからいけない。私たちは名・姓の順番だろう?あとなんだ菊って。女の名前だろ。」
「人の名前にケチ付けないでください。私だってコンプレックスなんですから。」
菊という名前は小さい時からよく女みたいだと馬鹿にされたものだった。
もともと身体も小柄だったため余計女だとからかわれた。
名前を付けたという顔も知らない祖母を恨んだ。孫には花の名をつけたいと言って聞かなかったらしい。だからと言って男に菊と名付けるのか。祖母は私が幼い時に病気で亡くなった。文句を言うこともできなかった。
ぶつぶつと言うと彼女は少しシュンとした。
悪気があって言ったつもりではなかったんだ、と顔の前で手を振る。
「でも、私は好きだぞ。菊って、発音が好きだ。言いやすい。」
いたずらっ子のように笑う彼女を見るのはこれが初めてだった。
私は祖母に、この名前をつけてくれたことを生まれて初めて感謝した。
「あ、ありがとう、・・・ございます」