ジェンガ
名前を好きと言ってくれたのは彼女だけだった。嬉しかった。
彼女の何の気なしの言葉で、私が救われたことを彼女は知らないだろう。
ナターリヤ・アルロフスカヤはいい意味で目立つ容姿をしていた。
道を歩けば誰もが振り返る。一緒にいると指をさされることが日常茶飯事だ。
しかも彼女は学校では有名人だというのだ。放課後一緒に帰るのも容易ではない。
「・・・注目されて、いますね。今日も。」
少し疲れたように言うと彼女は悪い、と呟いた。
「珍しがっているんだろう。私が他校の男と歩いてるから。」
まったく、と毒づくと私のほうを向いた。
覗き込むようにして聞いてくる。
「気になるか?」
彼女のこういう顔を見るのも悪くない。
私のことを気遣ってくれることが嬉しかった。
「いいえ。これが「契約」ですから。」
「・・・そうか。」
疑似彼氏を引き受ける以上与えられた仕事はこなさなければならない。
彼女と歩けば注目されることなどわかりきっていたことなのだから。
毎日彼女の学校へ迎えに行って、彼女の家まで送り、休日はどこかに出かけた。
家族のことやあの子猫のことや、好きな食べ物の話をしたり、映画を見に行ったり公園でまったりピクニックをしたり、買い物に行ったりした。
私たちは、どんな恋人よりも恋人のように振舞った。
私は、彼女と過ごすに連れて彼女のことを本気で好きになっていた。
自分の気持ちに嘘を吐きながら。誤魔化して、誤魔化して、誤魔化して。
恋人のふりと言いながら、彼女を自分のものにしたいという欲望でまみれていた。
それが叶うことはない。彼女はずっと兄しか見ていないのだから。
叶わないということは、ずっと前から知っていたのに。
私は、ナターリヤ・アルロフスカヤの恋人として生きた。
終わりが来ることを知りながら。叶わないことを知りながら。
手を繋がなければキスもしない。まして身体を重ねることなどありえない。
そこに愛はない。不確かな感情。
「恋は罪悪ですよ」と誰かが言っていたような気がする。
彼女を好きでいることは、私にとって罪だった。
一緒にいればいるほど別れを考えてしまう。
この壮大なおままごとに、いつかは終わりがやってくる。
そんなことわかっている。わかっているはずなのに。それなのに、私はどんどん彼女を好きになった。嘘ではなく、本当の彼女を自分のものにしたい。彼女に触れたい。好きだと、言いたい。
けれどどうすればいい?所詮私はただの幻。ただの虚像でしかないのだ。
行き場を無くした自分の心をどこに重ねればいい?
**
「猫の名前、何にしたんですか?」
尋ねると彼女はきょとんとした顔を向けてきた。
「名前・・・・ええと・・・猫だ。」
しどろもどろに答える彼女に、私はがくりと肩を落とした。
せめてもう少し何かあるだろう。
「かわいそうですよ・・・名前、つけてあげてください。」
「そんなこと言ったって・・・思いつかない。なら、菊がつければいい。」
むううと頬を膨らませる彼女はとてもかわいらしい。
私は名前をつけてやれと言われて腕を組む。
「・・・・そうですね・・・メスでしたから、桜とかどうですか?」
咄嗟にでてきたのは好きな花の名前だった。あの祖母にしてこの孫あり、ということか。
自分のネーミングセンスを少し呪った。
サクラ、サクラ、とぶつぶつ呟いてから彼女は笑う。
「この国の花だな!いい響きだ!気にいった!!」
きらきらと、あの紫の瞳が光る。
「気にいっていただけて光栄です。」
私も彼女につられて微笑んだ。
傍から見れば、恋人同士に見えているのだろうか。そんなことを考えて少し切なくなった。
「サクラか。いい名前だ。」
もう一度呟く。余程気にいったのだろうか。
「そうですか。」
力なく返答すると、彼女は私をじっと見つめた。
「・・・もちろん、菊もいい名前だぞ?」
猫に嫉妬しているとでも思われたのか、彼女は覗き込むようにしてこちらを見た。
「・・・ありがとうございます。」
にこりとまた微笑む。
この気持ちに、気付かれてはいけない。
真実を守るために嘘で塗りたくって、心の中の一番奥の奥に、閉じ込める。
けれど、彼女の笑顔を見るたびに、笑う声を聞くたびに、それは溢れてくる。
こんなに、こんなにも好きなのに、言うことはできない。
自分の心に、気づかないフリをして。
言ってはいけない。悟られてはいけない。
彼女を、好きになってはいけないのに。
どうしてこんなに惹かれてしまうのだろう。どうして私たちは出会ってしまったのだろう。
こんなに辛いなら子猫の世話なんて、しなければよかった。
恋人のフリなんて、しなければよかった。
出会わなければ、よかったのに。
**
「人は、死んだらどこにいくんだろうな」
疑似恋愛を始めてから1ヵ月が経っていた。
もう名前を呼ぶことにも、指を差されることにも慣れたころ、あの公園のブランコに腰かけて、彼女は呟いた。
放課後、特に用事がなければここに来て話してから帰るのが日課になっていた。
私も、彼女の隣のブランコを揺らしながら答える。
「今日はどうしたんですか?哲学のお話でも?」
彼女が唐突にこんな話をし始めることはしばしばあった。
例えばどうしてマンホールは丸いのか、とか宇宙はどのくらい広いのかとか。
だいたい彼女が勝手に満足して話をやめてしまうのがいつものことだった。
「人は死んだら天国か地獄に行くって小さなころから教えられるだろう?それって本当なのかなって。」
彼女はブランコをキィと揺らした。
「確かに、天国や地獄に行った人からお話を聞くことはできませんね。」
「たまに、怖くなるんだ。私は死んだらどうなるんだろうって。私が私でなくなったらどうしようって。日本には“生まれ変わり”って概念があるだろう?」
彼女は遠くを見据えて延々と話し始める。
私はただ相槌を打ちながら彼女の話を聞くだけだ。
「その“生まれ変わり”って、私が私であったことは覚えてないんだろうなあって思うんだ。そう思ったら今の私にも前世ってやつがあって、これから来世がやってくるだろう?でも私は前世のことなんか全く覚えてない。だから来世で「私が私だった」っていう記憶は無くなってしまうんだろうなって。それってなんだか悲しいことだと思わないか?」
彼女はいつも私の意見を求めた。
自分の思ったことを答えるけれど、彼女の欲しい言葉をかけてあげているのかは未だによくわかっていない。
「私には、貴女の考えていることはわかりません。けれど、前世や来世があったって、今この時間があれば、貴女は幸せなのではありませんか?「ナターリヤ・アルロフスカヤ」は、今この瞬間に生きているのですから。」
私がにっこりと笑うと彼女は何かを悟ったようにしてこくりと頷いた。
「ありがとう、菊。」
「いいえ、どういたしまして。」
彼女の両親に会って欲しいと言われたのは、この次の日だった。
**
「急なことで悪いんだが、ようやく海外から帰国すると聞いて・・・とりあえず、今週の土曜に会食、という形で会って欲しいんだが、大丈夫か?」