蟷螂の幸福
「アイツ、ルートヴィヒって外ではすごいがんばってんだろ?」
「え、はい」
「そのストレスが全部家の中…っていうか全部俺様に回ってくるんだよ」
「え?」
コーヒーの香ばしい匂いがする。しかし思考だけは遠くに行ったまま帰ってこない。
「だからアイツ俺のこと結構殴ったりすんだよ」
「は…ギルベルトさんはそれでいいんですか!?」
「おう」
私の質問と解答の間は二秒と空かなかった。やはりギルベルトさんはいつもの笑顔を浮かべたまま。
「それで、ルートヴィヒが楽になれるなら俺は全てアイツに捧げるさ」
その一言を聞いた時、幼い頃に聞いて思わず泣いてしまった話を思い出した。あの時、確か私はあの話が悲しい話だと思っていたのに、少し違うみたいで、
「…蟷螂の夫婦について知ってますか?」
「何だ、それ」
「蟷螂の夫婦は交尾の後、雌が雄を食べてしまうんですよ?」
「…俺らがそうだって?」
キッチンに立ったままのギルベルトさんが此方をじっと見つめてくる。その瞳に今度は負けないように見つめ返す。
「これ、ルートヴィヒさんに渡しておいてください。もう帰りますね」
「はあ!?コーヒーは?」
「急いでいるのですみませんが」
やっと入れ終わったコーヒーを両手にギルベルトさんはチェーッと呟く。受け取った書類をソファーの上に適当に放り投げてから、駅まで送ろうか?と聞いてくる。それに結構です、と返事をしてから上着に腕を通した。
「…なぜ私に話したんです?」
「ん?」
「ルートヴィヒさんの立場が悪くなる、とか考えなかったんですか?」
「…お前なら絶対誰にも言わないだろ」
玄関で彼は壁にもたれて笑いながら答えた。腕まくりをしてもう痣を隠そうともしていない。
「それに、誰かに知っていてほしかったんだよ」
「何を?」
「俺達の愛の形を」
愛、その腕に残った痣をこの人はそう呼ぶのだろうか。頬についた傷を、愛と呼ぶのだろうか。
「アイツは俺にこんなことをしていても愛している」
「…」
「俺もこんなことをされても愛している」
私はもうそんな彼に対して恐怖は抱かなかった。話しているギルベルトさんは本当に、心からの笑顔を浮かべていたから。
「…では、私はこれで」
「あ!本田、もう一ついいか?」
「え?」
「蟷螂は幸せだよ」
紅の瞳がじっと見つめてくる。反らそうて思えばできる。だがその瞳はそう思わせないような不思議な力を持っていた。
「蟷螂は、相手を喰い殺して、喰い殺されて幸せなんだよ」
「…」
「それが蟷螂の幸福だから」
「そうでしょうね」
蟷螂の雌は雄を食らい、その肉を自分の体にして生きていく。
だからきっとこの兄弟もそうなのだ。弟はこのまま兄の全てを食らい、それを全て自らの身体にする。
扉が閉まる瞬間の彼の表情のなんて幸せそうなことか!
私はきっと永遠にその顔を忘れられないのだろう。