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【標的287】雌伏の炎を絶やすな

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彼女がどうしてそうなったのか、炎真は知らない。
知ろうとしなかったからだと気づいたときには、もうアーデルハイトはほとんど笑わなくなっていた。
彼女の笑顔が思い出せなくなって初めて、何かが失われていたことを理解した。
遅すぎたのだろう。
それでいて彼女は炎真を切り捨てようとせず、今となっては炎真に最も多く触れる人物としてそばにいる。
鈴木アーデルハイト――笑わない女。強い女。美しい女。
同年代にヒーローを求める生徒たちによって、あたかも戦女神のごとく恐れ敬われていることは知っていた。
そのバカバカしい幻想が嫌でも耳に入ってくるからだ。
アーデルハイトが炎真とともにいる姿はお互いに隠していない。目撃される機会は腐るほどある。
彼らはおうおうにして誤解し、彼女が憐れみと義務感のようなもので、かわいそうないじめられっ子を庇護しているのだと思い込む。女に守られる情けない男という構図はわかりやすく、幼稚な虚栄心を満たしたい者たちにとっては都合がよい。狭い尺度で勝手に決めつけられ、自然と炎真は陰で嘲笑と侮蔑に晒された。
(――痛いのは嫌だけど、どうでもいい。ああいう奴らには何を言ったって無駄なんだ)

アーデルハイトが笑わない。
その苦々しさに比べれば体の痛みなどすぐ消える。

昔から炎真は人並み外れて怪我の多い子供だった。己の鈍くささのせいでもあるし、それがなおさら人に目を付けられやすくしているせいもある。
怪我は絶えず、血は流れ、傷は消えるはしから増えて、そしてアーデルハイトはやはり笑わなかった。
らうじのように眉をひそめて案じることはない。
ジュリーのように情けないと呆れることもない。
紅葉のように軟弱だと憤ることもない。
バカにしない代わりに、彼女は凍えたまなざしで炎真を見つめ、白くしなやかな指でゆっくりと傷に触れた。
――動くな。手当てする。
いつもそうだ。炎真の傷にばかり固執する。理不尽ないじめからは守らないが、得てしまった傷の痛みからは救おうとする。
(アーデルハイトは僕の手当てを誰にも譲らない)
炎真が己で処置するならともかく、医者に診せるまでもない傷であれば、らうじたちにさえ任せようとしない。たとえ粛清委員会の仕事が忙しいときであっても、当たり前みたいな顔をして炎真を呼び寄せ手を伸ばす。
彼女の性格を思えば、それは不可解なことだった。
忙しいなら放っておけばいいのだ。血など多少流れても死にはしない。根本的な解決にもならない。受け身と逃げ足だけはいくらか成長したとはいえ、炎真が変わらねば身に降りかかる災難の数々は減らない。その程度のことは何年も前からわかっている。
わかっていて、どうにもできずに何もかも諦めているだけだ。



まばたきをすると瞼が痛んだ。腫れているせいで視界は狭まり歪んでいる。
「炎真」
頭にまとわりつく霞みを払う声がした。凛と響いて夕闇に溶ける。
仲間たちと一緒に身を寄せた民宿は、日が暮れると途端に物音が少なくなる。
その静かな廊下で、アーデルハイトがまっすぐに炎真を見据えている。
至門中の制服に包まれた肢体はうつむきがちに歩く炎真とは完全に一線を画す。単に性差によるものだけではない。
背の高い彼女だ。きれいに伸びた背筋と長い手足と、外ではヒールの高いブーツが彼女の長身を強調する。
仲間としての贔屓目を抜きにしても、アーデルハイトは大人に近い体を持った中学生だった。たった一つ歳が違うだけなのに、時折無性に差を意識する。今はまだ、一学年の差は大きい。
何より、彼女と炎真とでは心の在り方にも生き方にも格別の隔たりがあった。

「来なさい」
手当てを。一言促して返答を待たずに背を向ける。こちらも心得ているから無言で後をついていく。
アーデルハイトが一人で使っている部屋へ招き入れられ、畳の上にあぐらをかいてぼんやりと壁を見つめた。
整然と片付けられた室内は彼女の几帳面さを表している。炎真たちではこうはならない。
己を律することに長けた彼女は、ともすれば人間味の薄い存在と思われがちだ。日本人の群れの中にいると容姿、能力、行動、すべてにおいて壮絶に浮く。
だがそれでも、あたたかい血の通った一人の女の子でしかありえない。
誰が知らずともシモンの仲間たちは――炎真はちゃんと知っていた。
「アーデルハイト」
しんとした部屋ではか細い呼びかけも存外大きく響く。
救急箱を開ける手に目を向け、淡々と語りかける。ずっと気にはなっていた。
「並盛中の風紀委員長って人に殴られたとき、痛かったろ?」
「大したことはない」
心からそう思っているような気負いのない返事だった。実際そうなのだろう。
でも、殴られれば誰だって痛いのだ。彼女すら例外ではないから否定まではされない。
(世の中は痛いことだらけ。どこへ逃げてもくだらない痛みばかりだ)
傷ついた額と瞼へ伸ばされる手に、抗うことなく目を閉じた。諦めに似た無抵抗だった。

逃避衝動は常にある。逃げたい。楽になりたい。安らぎたい。けれどそれは叶わぬとも認めている。
――古里炎真は絶対に逃げられない。
血と、指輪と、ファミリーと、彼女。つなぎ止めるくさびは多く、どれ一つ取って見ても炎真にはひどく荷が重い。
出口の見つからない迷宮にいるのだと悟ったら、絶望感に笑えたときもあった。

アーデルハイトは軟膏を塗り、ガーゼを当てて上から絆創膏を貼っていく。
額、頬、鼻の頭。右眼には白い眼帯が当てられる。
炎真よりよほど手際がいい。手当てはわずかの淀みもなくてきぱきと進められる。
だからすぐに終わってしまう。その上、終わった後の方が緊張を強いられる瞬間が訪れるのだ。

案の定、目が合った。ぎくりと肩が揺れる。反射的に身を引こうとしてぶざまにもひっくり返り、壁に頭を打ちつける。
仰向けに転がった炎真をアーデルハイトは無表情に見下ろす。手が伸びてくる。頬に指先が触れる。彼女は身を屈める。距離が、だんだん近くなる。
「ア――」
「動くな」
ひんやりとした手が、眼帯のない左眼をそっと覆い隠した。視界は暗闇に閉ざされ、互いの息づかいだけが聞こえる。
それから衣ずれの音。同年代の女子たちよりボリュームのある胸が、とうとう密着してしまう。押しつけられ、ぐにゃりと形を変える。

いつものこと。いつものことだ。
誰もいないところで二人きり。炎真の傷を隠して、炎真の眼を隠して、彼女は動くなと命令をする。炎真は困惑に眉を歪め、黙って指示に従い、いつも通りにその瞬間をただただ待った。
大人しく待つことしかできないからだ。
「――――」
アーデルハイトは体温が低い。鉄扇を振るう手はところどころ皮膚が硬い。
けれど――唇はあたたかい。やわらかい。舐めたことはないけれど、もしかしたらあまいのかもしれない。
触れるだけの接触はほんの一瞬。彼女は傷に触れてから炎真の唇に唇で触れ、そうしていつも離れていく。
視界が開けると、真上で赤い瞳が炎真を観察するように見つめていた。
シモンの仲間たちと同じ色だ。しかし炎真だけが決定的に異なる瞳を持っている。
望んで手に入れたものではない。この眼は否応なくいろんなものを見てしまう。