心音。
───さっきの子、怖がってたなぁ。
静雄は、若者達との喧嘩に巻き込んでしまった少女の顔を思い返す。
その胸に過ぎるのは、怯えさせてしまったことへの申し訳なさと――一抹の寂しさ。
割り切っているとはいえ、やはり怯えられるのは少々哀しい。
昔――力の制御ができず、そして、その力との付き合い方もまだ身についていなかった頃、守ろうとした人を己の手で傷つけてしまった時には、心がひび割れるような痛みを覚えたものだ。
今、少女の怯えた顔に覚えるのは、心のひび割れの間を冷たい風が吹き抜けるような――寂寥感。
───けど、そういやあいつは、俺の力にビビんなかったなぁ。
ふと、静雄の思い浮かんだのは、先ほどの少女より七つは年下だろう、幼い笑み。
───あいつも、今頃は外で遊んでんのかな。いい天気だし。
そんなことを思っていた最中だったから、耳に届いた声が記憶の中のものか、実際に聞こえた音なのか、彼は一瞬判断し損ねてしまった。
「――静雄お兄ちゃん!」
直後、ぼすっ、と後ろから足に何かが抱きつく感触がして、やっと現実の声なのだと気付き、
「……アカネ?」
慌てて、上半身を捻って自身の足元を見下ろした。
「こんにちは、静雄お兄ちゃん!」
そこにいたのは、彼の足に抱きついたまま彼の顔を満面の笑みで見上げる、小さな少女。
綺麗に切りそろえられたキューティーボブの黒髪に、人形のように愛らしい面立ち。小柄な肢体を包むのは、質のいいシックなツーピース。
彼女は粟楠茜。
かつて、初対面の静雄を、いきなりスタンガンで殺害しようとした少女であり──
そして、今現在も“静雄を殺そうとしている”少女だ。
静雄は、少女が自身に対して抱く『殺意』を知った上で――
「おぅ。どした、遊びに行く途中か?」
少女が向けてくる笑顔に、やはり屈託のない笑みを返す。
実際、彼にとって、彼女が自身に対して抱く『殺意』は気にするようなものではなかった。
彼自身の生半なことでは死なない並外れた頑健さによるところも大きいが、そもそも少女の持つ『殺意』が、悪意ある他者によって植え付けられたものだと知っているからだ。
寧ろ、彼女の持つ感情は『殺意』というより、『殺さなくてはいけない』という強迫観念に近い。
故に、その『悪意ある他者』に対しては煮えくり返るような怒りを覚えるものの、彼女自身に対しての怒りは全くない。
それより、何より――
「今日はお仕事お休みだって、こないだ言ってたから。もしかしたらゆっくりお話できるかなぁって、静雄お兄ちゃんを探してたの!」
「わざわざ、俺を?」
「うん!……迷惑、だった?」
不安そうに問う少女に、彼は破顔して頭を振る。
「いんや、俺も暇でぶらぶらしてたんだ。飲み物でも買って公園でも行くか」
「――ッ!うん!」
彼の返事に彼女はこの上なく嬉しそうな笑みを見せた。
そう――静雄は、彼女が『強迫観念』とは別に、純粋に自分を慕ってくれていることを、知っていたから。
と、自分の手へと伸ばされた茜の小さな手に気付き、静雄はそちらへ手を伸ばした。
彼女の手を握る──のではなく、その体に手を回して、軽々と自身の片腕に抱き上げてやる。
彼女は一瞬、ひどく驚いた顔をして───次いで、心底嬉しそうに笑みをこぼして、こちらの首筋に抱きついた。
それに、自然と浮かぶ笑みを返して、静雄は思う。
───守れて、よかった。
小さく儚くて、でも、柔らかくて暖かい、この無垢な存在を。
───守れて、本当に良かった。
茜は、電撃的な出会いの翌日、危うく浚われてしまいそうなところを、静雄によって救出されたのだ。
誘拐犯達は、物騒な銃器で武装した暴力のプロと思しき連中だった。あのまま浚われていたら、彼女がどうなっていたか――正直、静雄は考えたくもない。
あの時、犯人への怒りよりも、少女の安否を優先できたこと──自身の力を自身の意思で制御できるようになっていたことに、そのきっかけである存在に対して、静雄は深い感謝を覚えたものだ。
そして、生まれて初めて、守ろうとして守り通すことが出来た存在であるこの少女は──静雄にとって、特別に大切な存在であることは、否定しようのない事実だった。
しかし、静雄自身、彼女に抱く感情がどういうものなのか───他者を思うことに不慣れなために、イマイチ把握しきれていない。
友人達や職場の仲間に対する感情とは違う、というのはわかる。
漠然と「妹がいたらこんな感じなのだろうか」とも思うが、弟に対する感情とも大分違う気がするので、実際のところは違うのかもしれない。
ただ、はっきりわかっている気持ちもある。
───ありがとう。
それは、感謝。
当の茜は、静雄を恩人と慕うが、静雄からすれば、茜の方が自身の恩人なのだ。
彼女を助けたことで──本当に、自身の『力』を許せたから。
この『力』があって、良かったと思えたから。
自身の存在に──意味があると思えたから。
───本当に、ありがとうな。
そして──こうして、この手を恐れずにいてくれること。
茜を助ける際、静雄が振るった尋常でない力は、当然のように彼女も見ていたというのに。
この少女は「お兄ちゃんが悪人だったら、私が殺すから!」と息巻きながらも、いつか敵になるかもしれない静雄の力を恐れる様子もなく、懐いてくるのだ。
それは、彼女自身は無自覚なのだろうけれど──静雄が、自分には危害を加えないと言う、絶対の信頼の表れで。
それが、静雄には、くすぐったくも嬉しくてたまらない。
───トクトク トクトク
抱き上げた身体から伝わる、暖かな温もりに合せて、静雄はそんな音を聞いた。
───トクトク トクトク
それは、彼女の命の鼓動。
けれど、それは、もしかしたら──
傷つき、ひび割れた心に、暖かな何かが、ゆっくりと注がれていく音だったのかもしれない。