心音。
その男の名を、平和島静雄といった。
牧歌的な響きを持つその名とは正反対に、数多の武勇伝を持つ、生きた『都市伝説』。
曰く『池袋一名前負けした男』、曰く『決して喧嘩を売ってはならない相手』、曰く『池袋最強』。
風俗関連の会社で債務の取立てを生業とする、所謂借金取りだが、身に纏うのは常にバーテン服。
その理由は、以前彼がバーで働いていた際、彼の弟が大量に贈ったバーテン服を、職を変えた今でも愛用しているからなのだが――多くの人々はそんな理由を知らぬまま、ただそれを彼の『警戒色』として認知する。
『金髪にグラサンをしたバーテンダーには、決して喧嘩を売るな』――それが、この街における不文律。
彼は、自身が恐れられていることを知りながら、自身の異名に、誇りや奢りの感情は一切なかった。
あるのは、ただ安堵。
皆が自分を恐れて近づかなければ、誰も傷つけずに済むという、後ろ向きな安堵だけだった。
彼は、常人とは比べるべくもない、強大な膂力と、強靭な体躯と、驚異的な再生力の持ち主だった。
その手で自動販売機を放り投げ、足で乗用車を蹴り転がす。
その胸筋で、腹筋で、ナイフ程度の刃物は容易く止めてみせる。
その再生力は、小口径の拳銃程度なら、足を撃たれても、翌日には立って歩けるまでに回復する。
人間離れした、“異常”といえるほどの強さ。
しかし、その持ち主である静雄は、その力が嫌いだった。
いや、より正確に言うならば、彼は暴力が嫌いなのだ。
よく「暴力は何も生まない」と言うが、彼はまさにその通りだと考えている。
───もし仮に、暴力から生まれるものがあるとしたら、悲しみとか怒りとか憎悪とか復讐心とか、そういう良くねぇ感情だけだ。
暴力は、人の身体も、心さえも傷つける。壊してしまう。
それが、彼の持論だった。
だが、力は、時に暴力となり、正義ともなる――と言う者もいる。
確かに、正義のヒーローは、多くが超人的な力の持ち主だ。
誰かを救うにしろ、悪事を阻止するにしろ、力は確かに必要なのだ。
だが、静雄の持つこの力は、彼の意思を超えて、彼の感情のまま――怒りのままに、暴走した。
誰かを救おうとしても、結局は止められない力に巻き込んで、傷つけてしまう。
制御できず、ただ闇雲に暴走する力は、文字通り『暴力』でしかない。
だから、彼は、自身の持つ力を嫌っていた。
力を御せない、自分自身を、嫌っていた。
けれど――
ある日、そんな暴力の塊のような彼を『愛している』と言う存在が、彼の前に現れたのだ。
その『彼女』の愛情は歪んでいたが、彼の『力』に対する想いの深さだけは本物だった。
ただ残念なことに、『彼女』は彼の好みから大きく外れており、それ以前に人間ですらなかったので、彼は『彼女』の愛する『暴力』でもって丁重にお断りしたのだが。
彼はその時、初めて――怒り以外の感情で、その力を振るった。
その力を愛してもらえたと言う、『喜び』でもって。
そして、彼はその時に初めて――自身の力を、自分自身の意思で、制御できたのだ。
彼の中で、『暴力』でしかなかったものが――誰かを救える『力』になった。
そして、彼は――自身の持つ規格外の力を――それを持つ自分を、許容できるようになったのだ。
けれど、彼の持つ力が、他者から見て恐ろしいものであることに変わりはない。
人は、自身の常識を超えたものに対し、恐怖を覚えるものだから───